『いのちを“つくって”もいいですか?』島薗進、NHK出版、2016
生命科学の発展が生み出す様々な倫理的ジレンマをめぐって、哲学的に考察を進める本。副題に「哲学講義」というカタい言葉が入っているが、決して難しい本ではなく、平易な言葉でわかりやすく、生命倫理について、著書と一緒に考えるよう読者を導く、優しい内容になっています。
この本で問題とされているのは、病気を治療したり、失われた機能を修復させるだけではなく、人体の能力を向上させるために行われる「エンハンスメント」によって、「人間改造」が行われ、人間を超えた何者かを造り出してしまうことによって、何が起こるのかという不安。
出生前診断の究極の形である着床前診断によって、子どもの障害を予見して、産むか産まないかを大人が決定することが、障害者を断種するという、ナチスが実践していたような優生思想を復活させることにならないか。
キリスト教会では、受精という「生命の始まり」の瞬間を大変重視する向きがあり、そのようなクリスチャンたちは、受精卵に手を加えて遺伝子操作を加えることに、非常に抵抗を覚えます。
しかし、事態はその段階を超えて、生命科学の力で、新しい何らかの生命体を「つくる」ところまで来ており、従来のキリスト教倫理では対応できないところまで来ているのではないでしょうか。
医療とバイオテクノロジーが、有用性や効率、経済的利益や先端技術への欲望などと相まって、無限に発展を続けてゆくことが、どのような生命倫理的な課題を突きつけているのか。このままで人類は人間らしさを失わずに生きてゆけるのか。人間という存在のアイデンティティそのものが崩れてゆくのではないかという不安を突きつけられます。
しかし、技術がそこまで進んできている以上、それを考えずに済ますわけにはいかない時代になったのでしょう。
エンハンスメントによって、人間は人間らしさを失い、エンハンスメントできる人間とできない人間の格差を広げ、差別を助長して、この世界をますます生きづらいものにしてゆくのではないか、とこの本が警告しているように思いました。
いのちは「授かりもの」(キリスト教的に言えば「神に与えられたもの」と表現することができるでしょうか)である、という感性。あるいは「人間の力ではなしえないことがある」という感性を失ってしまうと、人間はどこに行ってしまうのか。
バイオテクノロジーは人間の生命を思い通りに操作しようとするけれど、いのちに関しては「思い通りにならないもの」をいかに受け入れ、共に生きることで、「授かりもの」あるいは「恵み」「おかげ」として、愛と喜びを見出してゆくものではなかったのか。
そのような思索を、この本は、キリスト教的を含む一神教的な発想と、日本を含むアジア的な宗教観、およびそれぞれの文化とも関連付けながら、深めていきます。
市場経済やグローバル的な新自由主義に加速された技術開発競争が、人間の人間たる所以を失ってゆくことに関連しては、旧約聖書のバベルの塔の物語がシンプルに暗示しているように読むことができますが、原発の問題と同じく、確かに人間には踏み込んではならない領域というものがあるのかもしれません。
それとも、政治家や財界人によって牽引される利益の追求は止めることはできず、我々はこの動きは止められないという前提の上で、私たちは倫理を模索してゆかねばならないのでしょうか。
10年近く前の本ですが、今を生きる私も知らなかったような、またおそらく私たちの多くが、普段あまり意識していないバイオテクノロジーの先端技術と、それにまつわる生命倫理的な問題点が、短い章節の中に数多く詰め込まれており、目まぐるしいと感じるほどです。
それだけに考える材料が多く、読む人の思考を刺激し、またグループで話し合うような使い方もできるように感じた本でした。
また、終盤では、人工妊娠中絶(いのちの始まりについて)や脳死(いのちの終わりについて)をめぐる死生観を深掘りしており、最先端のテクノロジーの話題だけではなく、今まさに私たちが身近に直面している問題において、その根底に日本的な宗教性についても考察を促されます。
個人的には、筆者は自分のキリスト教入門的な著書において、「永遠のいのち」とは、すべての人が運んでゆく大きないのちであり、ひとりひとりのいのちは、そこから送り出されてひと時を生きるものだ、というようなことを書いたことがあるのですが、それが伝統的なキリスト教的思考というよりは、アジア的な感性だったのかなと気付かされて、不思議な気持ちになりました(「いのちのプール」p.188)。
「個としてのいのち」とは何か、「つながりのなかのいのち」とは何か。それらは相反するのか。それとも両面を取り込んだ生命観が可能なのか。
今日と未来における私たちのいのちについて、考える材料を豊富に提供してくれる良い本です。もう新品では手に入らなくなっているかもしれませんが、中古でも図書館でもお読みになることをお勧めします。