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大きな光が世界を照らし、小さな光が私を導く

2024年12日22日(日)徳島北教会 クリスマス礼拝 説き明かし
ヨハネによる福音書1章1-5節(新約聖書・新共同訳 p.163、聖書教会共同訳 p.160)
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  初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。
 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
 (新共同訳)

 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。
 万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった。
 言の内に成ったものは、命であった。この命は人の光であった。
 光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。
 (聖書協会共同訳)

新約聖書:ヨハネによる福音書1章1-5節

▼光

 皆さん、クリスマス、おめでとうございます。会堂の前のろうそくも4つ目が灯って、アドヴェントから4回目の日曜日がやってきました。
 イエス・キリストが生まれたことをお祝いするのは、クリスマス・イブ、つまり24日の夜から25日の朝にかけてなんですね。イエスが生まれたのが真夜中だとされていますから、クリスマスは本来は夜のお祭です。ですから、カトリックを含め、いくつかの教会では、イブの夜から徹夜の祈りを捧げるところもあります。
 日曜日の礼拝は、イブの前のいちばん近い日曜日、つまりアドヴェント第4日曜日にクリスマス礼拝を行う教会が日本基督教団には多いようです。徳島北教会もそれにならって、今日、こうしてクリスマス礼拝を守っています。

 さて、今日お読みした聖書の箇所は、ヨハネによる福音書の最初のところです。他の3つの福音書とは違って、いかにもヨハネ福音書らしい、抽象的で象徴的な言葉がいっぱい出てきます。
 ここでは世界の始まりのことが書いてあります。「初めに」という言葉から始まるのは、旧約聖書の「創世記」という本の始まりと同じです。
 特に、「光は闇の中で輝いている」という5節の言葉は、創世記の天地創造の場面で、神さまが最初に「光と闇を造られた」と書いてあることを連想させます。多くの聖書学者が、ヨハネによる福音書を書いた人が、この天地創造の物語を意識していたことは明らかである、としています。

▼言

 今日お読みしたところでは、いちばん最初に「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった」と書いてあります。
 最初から謎めいた言葉ですよね。正直なところ、これでは「言」が神さま御本人なのか、それとも「言」は神さまとは別の存在で、神さまと共にいたのか、わかりませんよね。
 わかりませんけれども、これは、後に「三位一体の神さま」つまり「神さまとキリストは別の存在だけど、でも同じなんだ」という考えが生まれてきた……この福音書が書かれた時代には、まだ「三位一体」という教義は確立していませんでしたけれども、それでも、神さまと区別できるけれども、神さまと同じ、あるいは神さまそのものでもある存在があったという発想というかアイデアのようなものはあったと、推測はできるんですね。
 2節に「この言は、初めに神と共にあった」とありますけれども、ここの「この言は」という日本語訳はちょっとごまかしとも言える訳し方で、実際のギリシア語の原点では、「それは」とも「彼は」とも訳せる指示代名詞です。
 カトリックの正式な聖書であるラテン語聖書(ウルガタ)では「それは」という中性名詞に訳していますし、英語では「彼は」という男性名詞で訳しているものが多いです。日本語ではそういう論議は避けて「この言は」という訳し方をしている。
 「彼は、初めから神と共にあった」と訳すと、この「彼」つまり「言」がキリストを意味しているかもしれないと考えることができるし、「彼は」ではなく「それは、初めから神と共にあった」と訳すと、「それ」というのは人格ではありませんから、必ずしもキリストのことではないということになります。
 結局、本当のところはわからないとしか言いようがない。単語に男性・女性・中性という区別がない日本語では問題にならないところですけれども、区別がある言語を使っている地域では、これを三位一体の神さまと解釈するか、そうでないかという大問題になってしまいます。
 「私は聖書に書いてあるとおりに信じている」という人は、一体どのようにどっちを信じているのでしょうか。訊いてみたいところです。めんどくさいから論争まではしたくはないですけどね。

▼闇

 しかし、そういう論議はともかく、ここでも「言」は、何か神がかった特別なものであるということは、明らかです。
 この「言」は神そのものであり、神と共にあったもの。そして、この「言」からすべてのものが造られた。この「言」によらずにこの世に成立したものは何一つなかったと書いてあります。
 そして、この言の中に命があり、命は人間の光であった。ここで私たちが使っている新共同訳聖書では「人間を照らす光」と解釈されていますけれども、直訳だと「人間の光」となります。ひょっとしたら、人間そのものの中に命が光り輝いているという意味に解釈できるかもしれません。
 そして、その光は暗闇の中で輝き、「暗闇は光を理解しなかった」(5節)と新共同訳聖書では書いてある。これもひとつの解釈です。別の訳では「闇は光に勝たなかった」(聖書協会共同訳)となっているものもあります。もとのギリシア語では、「理解する」、「勝つ」以外に、「見つける、つかむ、手に入れる、襲う……」などなど、どう訳すかは、読む人の解釈によります。
 けれどもいずれにしろ、光は闇よりも優位なものなんだ、というニュアンスがあることは間違いないようです。

▼人の世の熱、人間の光

 この「人間の光」、「光は闇よりも勝っている」という言葉を読むと、私は1922年に部落差別と闘い、被差別部落を差別から解放する強い意志をもって発表された「水平社宣言」を思い出します。
 そして、その水平社宣言はこんな言葉でしめくくられています。
 「人の世に熱あれ。人間に光あれ」。「人間」と書いて「にんげん」と読む場合と、「じんかん」と読む場合があります。「じんかん」と読む場合は、特に「人の間」という意味が強調されていて、「人と人の間の万物すべてに光があたることで、人も物も平等になる」という思いが込められているとも言います。水平社宣言では、この「じんかん」という読み方を取ります。「『じんかん』に光あれ」つまり、人と人の間に光があたり、すべての人が平等であれ」という意味です。
 聖書の言葉を「人間の光が、闇に打ち勝つ」という風に解釈すると、「人の世に熱が生まれ、人間の中に光があって、それがすべてのものを平等にして、差別がなくなってゆく」という熱い思いにつながるのだと考えると、「なるほど」と感じ入るものがあるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
 これは、新約聖書のマタイによる福音書5章14節以下の「世の光」という言葉も連想させます。
 こんな言葉です。
 「あなたがたは世の光である。山の上にある町は隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台に上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(マタイ5.14-16)
 私たち人間に、「闇のような世の中に輝く光となって、この世を照らしなさい」と、強く命令口調で勧められていますね。
 全てのものを明るく照らし出し、間違っているもの、隠蔽されているものを暴き出し、正しいこと、美しいものを照らし出す。ヨハネ福音書で、「闇は光に勝たなかった」、光は闇に打ち勝つのだと書かれていることとリンクします。

▼光と闇

 ……ただ、私たちの人生は、そんなに明るいこと、正しいこと、美しいもの、真っ直ぐなものばかりでできているわけではありませんよね。暗いこと、間違っていること、あんまりきれいではないこと、むしろ醜い部分、ねじ曲がった部分があり、あんまり明るく照らし出されて暴かれても困る。できれば照らし出されずに、暗い所に置いておきたいという人生の現実もあるのではないでしょうか。
 神さまの生み出した光は、そして人間の中に、あるいは間に宿る光は、そんな私たちの闇を赦さないのでしょうか。闇は光を「理解しなかった」と訳されていますが、逆に、光は闇を理解してくれないのか。そんな風にも私は疑問を覚えました。
 そもそもの創世記の天地創造の物語でも、神さまはまず「光あれ」と言ったと書かれています(創世記1.3)。すると光があった。神は光を見て、「良しとされた」とあります(同1.4)。確かに神さまは光を良いものとされています。
 しかし、その後神さまは、光と闇を優劣のあるものとしては扱っていません。
 光と闇を分けて、昼と夜と呼んで、昼の方を大きな光る物(おそらく太陽)に治めさせ、夜の方を小さな光る物(おそらく月)に治めさせて、夜の方には星を散りばめる、という風に、それぞれを大切に仕上げたんですね(同1.4-5, 14-18)。
 神さまにおいては、光と闇は公平。闇もまた、神さまにしっかりと覚えられている、というのが、そもそもの天地創造のあり方ではないでしょうか。

▼一隅を照らす

 思えば、イエス・キリストのお誕生も、夜の出来事であったと伝えられています。
 イエスの誕生を知って、東の方からやってきた占星術の学者たちは、星をたよりにやってきました。夜に星が輝いていなければ、彼らはイエスに出会うことはできませんでした(マタイ2.2)。
 また、最初に直接救い主の誕生を知らされたのは、夜通し野宿して羊の番をしていた羊飼いたちでした。夜の闇の中から天使がやってきて救い主の誕生を告げ知らせ、続いてその天使に天の大軍が加わって、「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ」と歌ったと書いてあります。暗闇の中に光り輝く聖歌隊が歌うイメージですね(ルカ2.8-14)。
 そして、夜にまぎれて、羊飼いたちは赤ん坊のイエスを拝みに行きます(同15-20)。
 この時の光は、闇を照らして完全に暗い所をなくしてしまうような光ではありません。むしろ、暗い空に小さく光り輝く星の光のような。あるいは、大変明るい光だけれども、ひとたび照らしたあとは、再び暗闇が戻って来る。そんな儚い光です。
 占星術の学者たちも、羊飼いたちも、基本的には暗闇の中に生きる人間です。そして、真夜中に生まれたイエス・キリストは、小さな小さな赤ん坊です。それは暗闇の中に小さく輝く光です。
 部屋全体を明るく照らす光ではなく、一隅を照らす光。片隅を少しでも明るくするための、小さな光なんです。
 だから、その象徴として、私たちはクリスマスにろうそくを灯すんですね。

▼大きな光と小さな光

 こうして見てくると、聖書の中には、大きな光と小さな光の両方が記されていると言えると思います。そして、その大きな光も小さな光も、イエスのものだと書かれているんですね。
 たとえば、今日読んだ箇所より少しあとの、ヨハネによる福音書の8章には「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と書いてあります(ヨハネ8.12)。人間は自分自身が光り輝き、もはや闇の中を歩かないのだ、と。
 そういう考え方、生き方もあるでしょう。
 しかし、例えば、詩編の119編には、こんな言葉もあります。「あなたの御言葉は、わたしの道の光。わたしの歩みを照らす灯」(詩編119.105)。
 ここでは、世界をくまなく照らす光というよりは、暗闇の中を歩む自分の足元を照らしてくれるような、あるいは、行く先を示してくれるような小さな光でしょうか。
 私たちの社会には大きな暗闇があり、また私たちひとりひとりの人生にも暗い部分があってもおかしくありません。
 私たちはどんな光を信じて生きてゆくのでしょうか。何が私たちの希望になるでしょうか。
 今日お読みしたヨハネ福音書1章の18節には「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」と書かれています。
 「いまだかつて、神を見た者はいない」というのは、私たちは闇の夜に生きているということを示しています。
 しかし、私たちの人生を、そして社会を明るくする希望の灯はある、と聖書は語っています。
 「大きな光は世界を照らす。けれども、小さな光は私を導く」
 そんな風に信じることができるのではないでしょうか。
 「光の祭り」であるクリスマスに、それぞれの生きている現場、そして人生を見つめながら、分かち合いができればな、と思います。
 お祈りいたしましょう。

▼祈り
 
 神さま。
 あなたの御子、そして子なる神であるイエス・キリストのお誕生、おめでとうございます。
 私たちを救ってくださるかた、導いてくださる方、守ってくださる方であるイエスさまが、この世に来られたことを心から感謝いたします。
 あなたは、そしてイエスさまは、私たちの生きる世界を明るく照らし、また私たちの人生を導く光です。
 どうか、世界から争い、憎しみ、飢え、孤独が無くなりますように。地上の全ての人が、愛し合い、お腹が満たされ、喜びに満ちた人生を送れるような、そんな世の中が来ますように。
 そんな世の中が来るように、私たちにできること、私たちは備えるべき知恵を与えてください。たとえ私たちにできることは小さくても、この世の一隅を照らすことはできますように、あなたの希望の光を分けてください。
 今日ここに、クリスマスの喜びを分かち合う仲間が集えることを感謝いたします。どうかひとりひとりが、新しい年も活き活きと生きられますように、あなたの愛をわたしたちの全身に満たしてください。
 そして、あなたを知らず、あなたを信じない人にも、私たちと同じ愛をお与えください。私たちがその愛を証しすることができるような、勇気と力をお与えください。
 ここにおられるおひとりおひとりの胸にある思いと合わせ、幼子のイエス・キリストのお名前によって、お祈りいたします。
 アーメン。


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