見出し画像

宣教のはじめの第一歩

2025年1日5日(日)徳島北教会 新年礼拝 説き明かし
マルコによる福音書1章14−20節(新約聖書・新共同訳 p.61-62、聖書教会共同訳 p.60-61)
(有料設定になっておりますが、無料で最後までお読みいただけます。よろしければ有志のご献金でご支援いただければ幸いです。)

  ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。
 また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスの後について行った。

新約聖書・マルコによる福音書1章14−20節(新共同訳)

▼あけましておめでとう

 みなさん、新年あけましておめでとうございます。クリスチャンの暦では、クリスマスに先立つアドヴェントから新しい1年が始まり、本来なら今日までがクリスマスなんですけれども、同時にやはり1月に「歳が改まったな」と思う感覚も、やっぱり自分の中には根強いですね。
 とはいえ、ガザでのジェノサイドは終わる気配もなく、ウクライナでの戦争もまだまだ続きそう。子どもを含む多くの人が命を失い、生きている人も飢えと病で苦しんでいる。日本でも、能登半島の被災地の復興も、被災者の方々の生活の再建もなかなかままならないという話を聞きます。
 そういうわけで、「おめでとうございます」とニコニコ笑っていていいのかなという気持ちもあるのですけれども、その一方で、「我々が湿っぽい顔をして、沈んだ気分にひたっていても、誰が喜ぶんだろう」という気もするし、ここで思い直して、あえて元気に「おめでとう」と言い、おめでたい人間のおめでたい世界が広がるように、できることをやろうじゃないかと、道を拓いてゆく決意をするのもいいんじゃないかとも思います。
 そこで、今日はそんな私たちの営みの始まりに想いを馳せながら、1年の始まりに、イエスの活動の始まり、そしてイエスの弟子たちの活動の始まりのお話をしてみたいと思います。

▼最初の福音書

 マルコによる福音書は、ご存じの方も多いと思いますが、新約聖書の中の4つある福音書の中の、最初に書かれた福音書だとされています。
 このマルコの福音書の特徴は色々ありますけれども、まず何と言っても、最初を読むだけでわかります。
 マルコの福音書には、クリスマスの物語が一切書かれていない。つまり、イエスさまの誕生について一言も触れていない。
 洗礼者ヨハネが登場し、そこにイエスがガリラヤのナザレからやってきて、バプテスマ(洗礼)を受け、40日間サタンの誘惑の試練を経て、ガリラヤで最初の弟子たちをゲットする……というところから始まっています。
 こういう風に、イエスさまが人びとの前に公に姿を現して行動することを、イエスの「公生涯」と呼びます。マルコはこの「公生涯」しか書かないんですね。
 これは、マルコが公生涯以前のイエスさまの若い頃のプライベートな時代のことに全く関心が無いか、あるいは知らなかった可能性もあります。
 マルコが、当時の各地の教会に伝わる伝承をかき集めてきて、その資料をもとに最初の福音書を書いた時(紀元60年頃と言われていますけれども)、各地の教会には、イエスの公生涯についての情報はあったけれども、それ以外の情報はなかった。それから20年から30年経った後になって、クリスマスの伝説が生み出されてきて、マタイやルカの福音書はそれを書いたという説もありますし、マルコが書いたのはイエスさまが亡くなってからもう30年近くも経っているし、もうその頃にはイエスさまの誕生の物語は伝えられていたのだけれど、マルコはあえてその物語を載せなかった、という考え方も成り立ちます。これはどちらかわかりません。
 しかし、いずれにしても、イエスの誕生と少年時代、特に誕生の物語は、私たちにとって大切な信仰の真実の物語ではあるけれども、歴史的、科学的に事実であったかどうかは疑わしいということを考えると、マルコのように公生涯、つまり、かなり事実に基づいた面が強い物語から始めるのは、イエスさまのリアルな姿により近い(あまり伝説化されていない段階に近い)最初の福音書らしいと言えるのではないかと思います。

▼公生涯の始まり

 イエスさまは公生涯の初めに、まずバプテスマを受けます。この時、マルコ1章11節には、こう書いてあります。「天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。
 ここでマルコは、「イエスは神さまの子である」と宣言します。
 そして次に、イエスさまはその“霊”によって荒れ野(つまり、ユダヤ地方の岩砂漠で、現在のイスラエル国の領土でいうと南の方、死海の西から南西のあたりと思われます)に送り出し、40日間サタンの誘惑を受けます。「40」というのは「長い間」という意味の象徴的な数字なので、「彼は長い間、砂漠で修行をした」ということを表現しているわけです。
 ここでどんな誘惑を受けたのかは、マタイとルカには詳しく書いてあるのですけれども、マルコには何も書かれていません。これもまたマルコは知らなかったらしい。
 これは洗礼者ヨハネの弟子となって修行していた時代のことと考えられるのですけれども、公生涯の時期なのにもかかわらず、わからないということは、多分この時期のことについては、本当に情報が無いということなのでしょうね。洗礼者ヨハネのグループ内部のことは、初期のクリスチャンたちにはよくわからなかったのではないでしょうか。
 そして14節では、「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」と書いてあります。
 まずはイエスさまは、言葉による伝道を始めたんですね。それもガリラヤにおいてです。ガリラヤというのは、彼が生まれ育ったナザレという村も含まれた、故郷に近い地域です。
 洗礼者ヨハネのもとで修行していたのはイスラエルの南の方ですが、ガリラヤ地方は北の外れで、国境に近い辺境で、そのために外国人とのやり取りも多くて、南の方の、ユダヤ人の中心とも言える神殿のあるエルサレムの人たちからは見下されていました。
 ただ、見下されてはいましたけれども、ガリラヤ湖畔の地方都市はそれなりに経済的には潤っていて、それこそ、たとえばガリラヤ湖で穫れる魚を、周囲の異民族の町々に輸出していた。そして、その魚の塩漬けにして名産品にしてローマにまでも送って、その貿易で稼いでいたという話もあります。

▼神の国とは何か

 さて、イエスさまの言葉による伝道の話に戻りますけれども、「時は満ち、神の国は近づいた。」(マルコ1.15)
 「時は満ちた」。「満ちた」というのは、「満期になった」ということです。つまり、もうこの世は終わりだということです。
 そして「神の国は近づいた」という言葉でわかるのは、ここで言われているのは「行く」ところではない。私たちが亡くなった後、「行く」ところとしての天国ではない。
 ここでは元の言葉では、「天国」ではなく、「神の王国」という言葉が使われています。つまり、ここでイエス様は「もう人間が治める歴史は終わり、もうすぐ神が王となって支配する王国が、この世にやってくるのだ」と言っているわけです。神の支配が、この地上において実現する。そういう世の中がやってくる。この世の体制がまるっきり変わるだろう、ということを言っています。
 どう変わるのか。それは、イエスがこのガリラヤ地方で行った、 (1)「教えること」、(2)「癒すこと」、(3)「共に食べること」という行動の中に、先取りして表されていると言われます。つまり、イエスがその行動で証ししたことが、神の支配がどういうものであるかを示すものであると。
 それは……
 (1)「神の支配」つまり「愛による支配」について学び合うこと。    
 (2)お互いの病(それは身体の病もあれば心の病もあったでしょう)を癒し合うこと。そして、
 (3)一緒に食べ、一緒に飲むこと。
 2人や3人という少人数でも、それが実現していれば、その集いのそばには神がおられ、神が支配しているということです。
 それが今の人間社会では実現していない。しかし、「それとは全く違う、神の支配が始まるぞ!」とイエスさまはここで宣言しています。
 そして、「悔い改めて福音を信じなさい」(1.15)。
 「悔い改め」というのはギリシア語で「メタノイア」で、本来の意味は「向きを変える」ということ。神さまからそっぽを向いている「ハマルティア」つまり「的外れ」の状態から「向きを変えて」神さまのほうにちゃんと向くこと。
 そして、「福音」というのは「エウアンゲリオン」で、「良い知らせ」。それはさっき言いました「今までとは違う世の中が始まるぞ! 神の支配が実現するぞ!」という「良い知らせ」です。

▼漁師を弟子にする

 さて、そのあとイエスさまは何をしたかというと、早速、仲間を見つけに行きました。最初に連れて行こうとしたのは漁師たちでした。
 イエスさまは、最初に出会ったシモン(後にペトロと呼ばれるようになりますけれども)とその兄弟アンデレに「私に着いて来なさい。あなたたちを人間の漁師にしよう」と言います。
 そして、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネという2人も誘って弟子にしてしまいます。
 漁師というのは、当時のユダヤ人社会の中では、差別される職業の人たちです。生き物の命をやりとりする仕事だということ。これは日本の部落差別とも合い通じる差別です。
 また、魚を扱う仕事の人独特の生臭い匂い。特に大昔ですから、大量の氷や冷蔵設備、消毒などもなかった時代なので、漁師の身体にしみついた匂いというのは、今よりもすごかったのではないかと想像します。
 加えて、漁師は真夜中に水面近くに火を焚いて魚をおびき寄せて網を打ちますから、真夜中の湖に出る。真夜中の湖や森には悪霊が住んでいるとされていて、夜中に長時間湖の家にいた人間は、悪霊が取り憑くという迷信があったらしいんですね。
 更に言うと、国境近くで異邦人相手に商売することが多いので、正統派のユダヤ人から見ると、「あいつらは汚れた民族と接触している」、「汚れが伝染る」ということで差別される。
 そういうわけで、漁師というのは、ちょっと近づくと怖い、あまりそばに寄らないほうがいい奴らという扱いだったわけです。
 しかし、イエスさまはそういう奴らのところにズンズン入ってゆく。世間から除け者にされている人たちのところに仲間を求めていった。イエスさまが選んだのは、社会的には蔑まれた人たちでした。
 決して高度な教育を受けた教養人だったわけではない。しかし、厳しい自然界を相手にすると同時に、外国人とギリシア語を使いこなして商売をするバイリンガルの貿易業者でもある。そして差別される経験から、人間社会の冷たさも知っている。そういう、結構したたかな連中をイエスさまは弟子にした、ということを考えても良いのかな、と私は思います。

▼神の国の先取りとなる

 ここで大事なことは、イエスさまは教えることはともかく、癒やすことと共に食べるという活動は、独りではなさらなかったということではないかと思います。
 イエスさまは、4人の弟子たち(この2人がイエスさまの作ったコミュニティの中心人物になっていったと思われますけれども)をまず、自分の仲間にして、その直後の1章21節から、さっそく癒しのわざを行っていきます。
 逆に言うと、癒しの活動を始める前に、まず彼がやったことは、仲間を募ることだったと言えるわけです。
 彼の「教えること」、「癒すこと」、「共に食べること」という3つの大きな活動の中心は、神の国、つまり神の支配の先取りだということを、先程私言いました。
 その神の支配の実現を目指して先取りを現実のものにするために、彼はまず仲間を求めたんです。
 このことが、私たちの教会の存在意義と進む道を示してくれていると思います。
 イエスさまは具体的に神の国運動を進めるにあたって、仲間を求めた。その呼びかけに応えようとするのが教会だということです。
 まずは、この教会自体を神の国の先取りにすること。それは、この場所が、私たちの目指すべき神の支配はどのようなものかを、聖書を通じて学び合うこと。
 次に、身体の病であれ、心の病であれ、それを互いに癒し合うこと。もちろんこの中にはお医者さんもおられ、癒しのプロには誰もかないませんが、それでもお互いに愛し合うこと、たとえ言葉をかけ合うだけでも、互いに心が癒やされ、またそれによって健康が取り戻されるということも私たちは体験しているのではないでしょうか。
 そして、共に食べること。これは互いに仲間内だけで愛を分かち合うだけでなく、この教会に来られる新しい方をも心からもてなし、食事の場に招くことで、「神さまは誰でも愛している」ということを、胃袋から理解していただく。大切な宣教のわざです。
 更には、その神の国の先取りは、ただ教会の中だけにとどまるのではなく、教会から送り出されてゆく私たちの生きる現場においても、神さまの愛の証しをすることにおいても、実現します。
 「伝えること」、「癒すこと」、「共に食べること」を、文字通りその形で実行するとまではいかなくても、出会う人出会う人に、「あなたは愛されていますよ。愛される価値のある人ですよ」ということを、言葉であれ、行いであれ、伝えることは不可能ではない。
 もちろんそれは、うまくいかないというのも往々にしてあることです。私たちは人を愛するということに何度も失敗します。しかし、失敗はすべて経験知となり、次の行動に活かされてゆきます。私たちは何度も失敗しながらも、神さまの支配が全ての人に及ぶということを、証しするために送り出されているのではないでしょうか。

▼イエスの仲間となる

 イエスさまの呼びかけに応えること。
 イエスさまの仲間になること。
 イエスさまについてゆき、一緒に歩むこと。
 それが教会に求められていることなのではないでしょうか。
 「そんな教会のわざを、今年も始めてゆきましょう」と、新年の抱負として呼びかけたいと思います。
 皆さんはどのように応答してくださいますでしょうか。

 祈ります。

▼祈り

 天にいらっしゃる、私たちの造り主である神さま。
 日々、あなたに与えられた命を、こうして生かされていることを、感謝いたします。
 そして、私たちが出会う人、出会う人に、あなたの愛を証しするチャンスを与えていただいていることを感謝いたします。
 しかし神さま、私たちはともすれば、的外れな生き方への誘惑に負け、あなたの赦しがなければ、自分らしく生きることもかないません。
 どうか神さま、私たちを罪から救い出し、あなたにしっかりと結びつけてください。あなたの愛にしっかりと立ち、あなたの愛を少しでも証しできる者へと成長させてください。
 そのために、私たちがどんな失敗をしようとも、再び立ち上がることのできるよう、あなたの復活の命の力を与えてください。
 言い尽くせぬ感謝と願いの祈りを、新しい歳の教会の歩みを始めるにあたり、ここにおられる全ての方の胸にある祈りと合わせて、私たちのいつくしみ深き友であるイエスさまのお名前によって、お捧げいたします。
 アーメン。


ここから先は

0字

¥ 100

期間限定!Amazon Payで支払うと抽選で
Amazonギフトカード5,000円分が当たる

よろしければサポートをお願いいたします。