罪のない方はいらっしゃいますか
2023年7月16日(日)徳島北教会 主日礼拝 説き明かし
ヨハネによる福音書8章1-11節(新約聖書・新共同訳 p.180、聖書協会共同訳 p.177)
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▼ヨハネによる福音書8章1−11節
イエスはオリーブ山へ行かれた。
朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。
「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。
イエスはかがみ込み、指で地面に何かを書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして、言われた。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(新共同訳)
▼あなたに罪はありますか?
今日は、「罪」と「悪」の話をしようと思います。
ふだん我々は「罪」という言葉と「悪」つまり「悪いこと」という言葉を、あまり厳密に使い分けていないと思うんです。
たとえば、私はこのまえ、聖書の授業の中で、「皆んなは自分の中に罪があると思いますか?」という問いかけをしました。すると、ポカンとしている子もいれば、「うんうん!」としきりに頷いている子もいました。
実は、この質問をしたあと、私はちょっと後悔しておりまして、本当はその時、「じゃあ皆んなの中に良心はあると思いますか?」とも訊いてみたらよかったのかもしれません。けれども、その時は「罪」と「赦し」の話をしたい時だったので、ついつい「罪の話」にフォーカスしてしまったんですね。
とにかく、その時は、私はみんなに「自分の中に罪はあると思いますか?」と訊いてみたんですね。すると、半分近くの子は「うんうん」とうなずいていたと。
その時、子どもらは「罪」と言う言葉を「悪いこと」あるいは「悪い心」と言う意味で捉えていたと思います。また、私自身もその辺をわざと曖昧にして話していました。
子どもらはどんなことを自分の罪、あるいは悪と考えていたでしょうか。ひょっとしたら、人のことをねたんでしまう気持ちや、クラスメイトに意地悪をしてやりたいと思う気持ち。他人の不幸や困っていることを、つい喜んでしまう気持ちや、自分さえよければ、他の人のことなんかどうでもいいと思ってしまう気持ちなど、そんなことを考えていたのかもしれません。
▼罪と悪は同じか
キリスト教では、「罪」と「悪」とは、厳密には、別のものだと言われることがあります。あるいは「罪」と言うのは、いわゆる一般の世の中で言う「犯罪」と言う意味ではないのだ、ということが説かれたりします。
聖書の言葉、ギリシャ語で言う「罪」と言うのは、ご存知の方も多いであろう「ハマルティア」と言う単語です。
「ハマルティア」と言うのは、これもご存知の方が多いでしょうけれども「的外れ」という意味です。
ですから、キリスト教で言う「罪」と言うのは、神さまが本来望んでおられた人間の姿、おそらく神様は、人間をご自身に似た者、つまり良いものとして作られたので、その本来の良い状態から外れてしまった、離れてしまった、そういう状態のことを言うのであろうと思われます。
もちろん、神様から離れた、あるいは、神様が望んでいた良い状態から離れてしまったと言うのは、結果的に悪いことをすることにつながってしまうと言う事はあると思います。
ですから、場合によっては「『罪』は『悪』なんだ」というニュアンスでものを言っても、不思議は無いのかもしれません。
実際、たとえばパウロという人が書いた手紙の中にも、「悪徳表」と言うものが、あちこちに見られます。たとえば、ローマの信徒への手紙、1章の29から30節には、こんな言い回しがあります。
「不正、邪悪、貪欲、悪意、妬み、殺意、争い、欺き、邪念、陰口、悪口、神を憎む、傲慢、思い上がり、見栄、悪事、親に逆らうこと、無分別、身勝手、薄情、無慈悲……」
よくもまぁこれだけ思いつくものだと思うくらいたくさん並べられていますが、パウロは「このようなことを行うものが死に値するという神の定めがあるのだ」(ローマ1.32)と言っています。
こういうところを読むと、パウロさんが「罪」を「悪」と結びつけて理解しているのだろうと思えてきます。
同じローマの信徒への手紙の第3章10節では、パウロは「正しいものはいない。1人もいない」と言う言葉も引用しています。昔は「義人はいない。ひとりだにいない」という言い回しもしていましたけれども、これは旧約聖書の詩篇14編3節、それから53編4節にも収められている「善を行うものはいない。1人もいない」という言葉を引用したものです。
「正しい人はいない。1人もいない」「善いことを実践できる人も、1人もいない」というわけですけれども、ここにもひょっとしたら、パウロさんが性悪説をとっていた可能性を見ることもできるかもしれないと思ったりします。
けれども、今日お読みした聖書の物語は、私たちに「罪はあるけれども、悪いとは言えない」、「罪には問われないけれども、悪い人間だ」と言うことがあるのではないか、ということを考えさせてくれるかもしれない、と私は思います。
▼罪人ではないが悪意はある
これもよく知られた「姦通の現場で捕らえられた女性の物語」です。
姦通、つまり夫以外、または妻以外の相手と性的な関係になると言うことを指しますが、これはもちろん、旧約聖書の律法、すなわちユダヤ人の掟の中で厳しく禁じられていました。
もっとも、詳しく言うと、夫のいる女性と姦通した場合、その女性も相手の男も石打の刑で処刑されます。これは、女性の所有権は夫にあるとされていたので、人妻と姦通する事は、その夫である男の所有権を侵害すると言う意味で、姦通した男は罰せられるわけです。女性の人権を守るためではありません。
例えば、結婚していない女性が犯された場合、男は罰せられず、お金を払ってその女性を妻にすることができます。つまり、男が相手の女性を自分の所有物にすれば話は丸く収まるわけです。
今日の聖書の箇所では、つかまって連れてこられたこの女性は、石打の刑にするべきだと、周りの人に言われているので、夫のいる女性だったと言う事は明らかです。
けれども、相手の男性は一体どこにいるのでしょうか。現場を捉えられたと言うのなら、相手の男性も連れてこられてもおかしくなさそうなものですが、相手の男性はいません。
相手の男性は、この女性を連れて来た男たちの仲間だったのか。あるいは、女の方を連れてくる方が、見世物としては面白いと男たちが考えたのか。とにかく、ここに女の方を連れてきたことに、ある種の悪意のようなものを感じることができます。
男たちは、イエスに「このような女は我々の掟では、石で打ち殺せと書いてある。お前だったらどうするか」と詰め寄ります。
これは罠であって、ここでイエスが普段から女性や子供を大切にしている姿勢を貫いて、「この女を殺すべきではない」と言うと、ユダヤの掟を破ったと非難することができますし、もし「律法に従わなくてはならない」と言ったならば、ユダヤ人がリンチで人を処刑することを禁じた、ローマ帝国の法に触れることにもなりますから、イエスはローマ兵に逮捕されてしまうでしょう。
つまり、どのように答えても、ユダヤの掟に背くか、あるいはローマのほうに背くか、どっちに転んでもイエスにとっては不利になるという罠なのです。
加えて、もしユダヤの掟に従わなくてはならないとイエスが判断したら、今までイエスが女性を大切にしてきたことが嘘だったと言うことにもなります。イエスは大きく弟子たちや周囲の人たちの信頼を失うでしょう。
こういうことをしている男たちは、自分たちは正しいことをしていると思っていたと思います。少なくとも自分たちはユダヤの掟を守っている。それに忠実だと思っているわけです。つまり、彼らに罪はありません。罪はありませんけれども、悪意はあるわけです。
▼罪人だが、悪意は無いかもしれない
これに対して、ここに連れてこられた、姦通の現場で捕らえられた女性は、明らかに掟を破った罪人です。殺されなくてはならないと定められた犯罪者です。
しかし、この女性が悪い人間だったのかというと、そう単純に言い切って、それで良いという風に割り切れないような気もするのです。
この女性が、なぜ姦通をするに至ったのか。
例えば、先ほども申し上げたように、当時の女性は夫の所有物です。結婚する前は父親の所有物で、結婚すると夫の所有物になります。人間としてのパートナーと言うよりは家財なのですね。
そのような圧倒的に女性の自由が認められない世の中で、ひょっとしたらこの人は自由に人を好きになると言う世界を知ってしまったかもしれない。その結果、掟を破ってしまったかもしれない。
そうすると、彼女をその罪に陥らせてしまったのは、そのような女性に不公平な社会であったと言えないこともないわけです。
あるいは、もっとあり得る可能性ではないかと思いますが、この女性はお金をとって、夫以外の男性と関係を持っていたのではないかと推測することもできます。生活の苦しい家ではそういうこともありえたのではないでしょうか。
もしそうなら、相手の男性がここから逃げてしまっている、逃してもらえたということも説明がつくような気がします。女を買うという行為が認められている社会なら、そういう男を逃し、相手の女だけを連れてくるほうが、面白おかしいし、「こいつは罪人だ」と責めることができる、格好の餌食です。この女性は圧倒的に弱い立場、しかも恥ずかしい立場でここに連れてこられているわけです。
この場合も、彼女に純粋な悪意があったとは認めがたい。むしろ、そのような行いに追いやった社会の状況が問題だったのではないか。
そうなると、この女性は、確かに罪深い行いをしたのかもしれないけれども、悪い人間だとは言い切れないと思うのです。彼女は歪んだ社会の被害者かもしれません。
▼お前の中に悪はないか
さて、イエスは、この女性を連れて来た男たちに問い詰められても、最初は相手にしていません。地面に何か書いていたと聖書には書いてあります。
何を書いていたのか分かりません。文字を書いていたと言う説もあるし、絵を描いていたのだと言う人もいます。何を書いていたのか分かりませんが、要するに、まともに連中の相手をする気にならなかったと言うことでしょう。
けれども、連中があまりにしつこくうるさく絡んでくるので、イエスは立ち上がって答えます。
「あなた方の中で、罪のない者から石を投げよ」。
これ、私たちの読んでいる聖書では「罪を犯したことのない者」と書かれてありますが、聖書の元の言葉では、単語1つで「罪なき者」と言っています。「ハマルティアのない者」です。
「この中でハマルティアの無い者から、石を投げろ」と言っているわけです。
この場合のイエスの物言いでは、「ハマルティア」と「悪」の区別は曖昧なような気がします。つまり、「お前たちの中に全く悪のない者がいるか」と迫っているわけです。
「ハマルティア」は「的外れ」のことだと先ほど申し上げました。神様の望んでいる姿から離れていると言うことです。つまり良くない状態、「悪」の状態だと言うことです。
イエスは「お前たちは、掟を破っていないかもしれないけれども、お前たちの心の中に悪はないか」と問いかけているのではないでしょうか。
そして、この問いかけは、私たち自身に対する問いかけでもあるのではないでしょうか。
私たちの心の中は一点の曇りもないと言い切れるでしょうか。私たちの心の中には一点の汚れもないと言い切れるでしょうか。
イエスは「だからお前たちはダメなんだ」とは言いません。ただ「お前たちは悪のない人間か」と問いだけを投げかけているのです。
この問いかけを受けて、女性を嘲ったり、イエスを陥れようとしていた男たちの中で、歳をとったものからその場を離れていったと書いてあります。
長く生きれば生きるほど、自分のことを客観的に見れるようになるというか、自分がそこまで立派な人間ではないというか、それなりに魂が汚れてきたことも自覚しているということを言いたいのでしょうか。
▼脚下照顧
もっとも私は、この話が実際にあったことではないのではないかなと思っています。といいますのも、現実の世の中では、ここまで言われても平気で石を投げる人はたくさんいるだろうと思うからです。
やっぱり私は性悪説ですね。世の中はろくでもない人間だらけだと思っているわけです。たぶん、今の世の中では、たとえばネットの世界では、匿名で、自分の正体を隠して、遠慮なく何度でも辛辣な言葉で石を投げ続ける。死ぬまで投げ続けるということが起こっています。そして、実際にそうやって殺してしまうということが、つい最近も起こりました。
ですから、ちょっとこの物語は、今となっては現実的ではない。しかし、現実ではないからこそ、世の中の人がこのようであってほしい、自分の中の悪を自覚できるような人であって欲しい、そして、誰も他の人のことを裁かないで欲しい、と言う願いが込められている物語のような気はします。
曹洞宗の開祖で、道元と言う人が「脚下照顧(きゃっかしょうこ)」と言う言葉を残したと言われています。「脚下照顧」と言う言葉を聞いたことのある方も多いのではないかと思います。「自分の足元を照らして顧みなさい」。「他の人のことをつべこべ言う前に、自分のことをよく見て反省してみなさい」という意味ですね。今日の物語は、この「脚下照顧」と相通じるものがあるのではないかと思います。
私たちは、もちろん法に反することをしてはいけません。しかし、法に反する以前に、私たちはハマルティアにはまってはいないだろうか。神が望むような良い姿で生きているだろうか。自分をちゃんと見つめてみれば、汚れた悪の部分があるのではないだろうか。
そこから目をそらしてはならない。自分の足元を照らして、自分を顧み、自分の中にある悪を見つめ直してみなさい。
神さまはあなたを裁かない。だから、あなたも自分を裁く必要はないし、他の人を裁く必要もない。ただ、自分の中の悪をちゃんと見つめなさい。後はどう生きていくのか、自分でよく考えなさい。
そういうことが、この男たちにかけたイエスの言葉によって、私たちが学ぶことができることではないでしょうか。
▼赦しと愛の促しに応える
またイエスは、この女性に対しても「これからも罪を犯すなよ」と言いました。この場合は「掟を破るなよ」と言う意味でしょう。「お前は悪い人間だ。だから良い人間になれ」と断罪し、命令しているわけではありません。
そしておそらく彼は、この女性が同じことをやらかして、イエスの下に連れてこられたとしても、また赦してくれることでしょう。人間は何度でも過ちを犯します。けれどもイエスは、何度でもその過ちを赦して、「もうこれからはこんなことをするなよ」と送り出してくださるのでしょう。
でもそれは、「これからも過ちを犯しなさい」と言う意味ではありません。過ちを正していくのは、私たち自分自身です。イエスが言っているのは、「たとえ過ちを犯したとしても、神様はあなたを愛しているよ」と言うことであって、過ちを犯すことをよしとしているわけではありません。だからこそ、イエスは「もうこれからはこういうことをするなよ」と優しくおっしゃっているわけです。
「あなたは神様に愛されている。だから、あなたはもうこれ以上自分を責める必要はない。そして、これからどう生きていくのかは自分で考えなさい。あなたはもう自由なのだから」と。
私たちは、自分自身で自分の人生を良いものにするために、罪と罰の負のループから解放されて、自由を与えられているのではないでしょうか。このイエスの赦しと愛に満ちた促しに応えて、今日も明日も生きていきたいと思うのですが、いかがでしょうか。
祈りましょう。
▼祈り
神さま。
私たちは、自覚のないままに、あなたの望んだ私たち自身であろうとせず、あなたがせっかく愛してくださっているにもかかわらず、悪しき思いを抱き、行うことがあるのではないかと思います。
神さま、どうか私たちが、自分でも気づかないままにあなたにも、人にも罪を犯しているとすれば、それに気づかせてください。そして、悔い改めて生き直す勇気と力を与えてください。
そんな私たちをよくご存知のあなたが、私たちを赦してくださっていることを、私たちは聖書を通して存じ上げています。
あなたが私たちを造ってくださった想いを大切にして、日々を生きてゆくことができますように。いつもあなたのことを想う信仰をお与えください。
イエス様の御名によって祈ります。
アーメン。
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