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本という神に支える

本が大好きだ。物心ついた頃からもう絵本を読んでいた。何故読むかとかもうそういうことではない。私にとって本はおじいちゃんの家の仏壇や神棚と同じくらい当たり前に日常にあり日常的に向き合うものだ。

私自身には特定の信仰はないけれど、漠然と神のようなものには手を合わせたくなる。神社にも寺にも教会にもひっそり手を合わせる。思春期には出家に憧れた。世間から離れて寺や修道院で暮らしたかった。そういう場所もまた人の世の一部であることには大人になってから気づいた。

なんとなく社会人になってふらふら生きてきた。ふと気づいた。浮き世にどこか馴染めない私は、本と共に生きていけばいいのだ。それは独立して本屋になるとか読書インフルエンサーや読書Youtuberになるとかそういうことではない。

ただ日常のなかで祈るように本を読む。
修道士が神に祈るように。

こう書くと美しすぎるかもしれないから、もっと俗な感じにすれば、魔法使いが鍋をかき回すような、占い師が水晶玉を覗くような。
日常的な行為なのだけれど、どこか日常とは違うところにつながっているような、綺麗に言えば神秘的、一般的な常識に従って言えばうさんくさいような行為。本人には神聖なようで、ちょっと後ろめたいような、世界に背を向けるような密やかな反抗。

こういう感じをなんといえばいいのかなと考えていたら、ネットで自分の気分にぴったりの言葉をみつけた。


よい音楽や絵画や本にはそういうところがある。現実の世界と違うところに連れていってくれる。それは嘘でもまやかしでもなく、でも実際にその世界に手で触れたり足を踏み入れたりできるわけではなく、それでも確かにそこにある。

どういうわけか人間にはそういうものが必要なのだと思う。世界のどこにでも伝承の物語や音楽があるように、形のないものに何かを託して伝えていくことは人間という種にしかない生物としての生き残るための知恵であるかもしれない。人間の本能に近いものと言ってもいいかもしれない。その感覚は人間が増えるに従い、それを極めようとする者達によってどんどん進化し深化し多様になり研ぎ澄まされていった。それは時に既存の社会に背を向けるような、現実の枠組みを飛び越えるようなものでもあったかもしれない。それでもやはり、人間が生きていくために必要なものであった。

誰かの脳の中にしかなかったイメージが、言葉やリズムや音階や色彩や形によって、脳の中からあらわれ他の人々に伝播される。それによって人は泣いたり笑ったり怒ったり悲しんだり、何かしらを知り、考え、何かを想う。誰もが何らかの形でそういう刺激を受けて生きている。

私にとってそのための媒体が言葉であり文章であり本なのだ。本を読むことについて少し考えてみたら、いつのまにかずいぶん遠くに来ていた気がする。本は時間も距離も越える。ページを開けば心はどこにでも行ける。


ぜんぜん書いた内容と関係ない
昔でかけた田舎町の夜の小路です