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その日、全世界で(第5章)

第5章 義母からの電話
 
 いつも通りの長電話になりそうなので、私は夫に先に食べるねとジェスチャーで伝え、先に食べることにした。夫も話が長くなると見込んだようで、寝室に行って話をし始めた。私は夫と残りのチキンカレーを食べようと、鍋を開けた。
 (ほぼない。これは、一人分もないな。亮介と勇太、大盛で食べたな。仕方ないか。じゃ、康介には食パンにカレーを載せて、その上からミニトマトとスライスチーズを載せて、チーズカレートーストにしてもらって、私は納豆ネギ卵と市販のみそ汁にしよう)
 私が食べ終わったころ、夫がやってきたので、チーズカレートースト、コーヒー、そしてバナナを用意した。夫は少し疲れたようだった。
 「どうしたの?何か持ってきてほしいとか?」
 「うん。それがおやつとか服とかじゃなくて、聖書を持って来てほしいって」
 「聖書?なんで?」
 「それがよくわからないけど、信じたらしくて。いつも家に来る人が丁寧に色々教えてくれたらしい」
 「あ、前に教会の人が来たけど、あの人?」
 「名前は辻本とか言っていたかな。いつ信じたか聞いたら、数か月前らしくて、何回か教会にも行っていたみたい。最近腰が痛いから、家の方に牧師さんが来てくれるようになったらしい」
 「…。変な教会じゃないよね。よくあるお金目的みたいな。」
 「それはないみたい。僕も何か買うようにとかお金出すように言われてないか聞いたけど。聖書も教会の人がプレゼントしてくれたらしいし、教会に行ったら、よく昼食も食べさせてもらったりしていたらしい。知らなかったけど」
 「なら、良かったけど、なんか周りで急にキリスト教信じる人が増えてきたよね」
 「本当にね。なぜだろうね」
 「で、聖書ってどこにあるの?」
 「実家の和室の棚の奥にあるらしい。だから、それを持ってきてほしいって」
 「あの教会の人に私、失礼な態度をとってしまったね。しかも、牧師さんだったみたいだし。私、結構です的な感じで冷たくあしらっちゃった」
 「まあ、大丈夫でしょ。お母さんは家族には信じたことや教会に通っていることを話してないと、牧師さんに言っていたらしいから、向こうも言えなかったのだろうし。僕らには関係ない話だしね。だから、朝ごはんを食べ終わったら、実家に行って、リハビリセンターに聖書を持って行って、その足で会社に行ってくる」
 主人は朝食後に実家に行き、聖書と先日渡してくださいと言われた教会の冊子と名刺も持ってリハビリセンターの義母に届けた。夕方には義母から連絡があった。教会の電話番号がわかったから、牧師先生と話ができたという喜びの電話だった。
 周りがなぜかクリスチャンになっていくが、私には関係ない。私は、溜まりに溜まっている自分自身の仕事をどうにかしないといけない。そう言い聞かせて、毎日ひらすら来る日も来る日も仕事と家事に追われる日々を数か月過ごした。
 由香は、その後何も言ってこなくなった。私がきつく言い過ぎたのかもしれない。ココも由香も私の性格を分かっているので、今は引いているのだろう。しかし、まったく連絡がないのは本当に寂しいものだ。私は、本当に勝手な人間である。メールやお誘いの連絡が来ると、鬱陶しいと感じるし、まったく来なかったら来なかったで寂しくて仕方がない。どうしようもない我儘女だ。
 世の中は、まだコロナ下にあり、息苦しいマスクもいまだに日本はとれないままだ。政府がようやくマスクの着用は個人の判断でと言ったにもかかわらず、まだまだ多くの人がマスクをしている。日本人は何故こんなにも、周囲に合わせてばかりなのだろう。
 自分ではマスクが必要ないと思っていても、周囲がつけていたら自分もつける。周りが外しだしたら、自分も外す。まったく、自分というものがない人が多い。と言っても、私もその一人なのだが。
 先日バスに乗っていたら、気の弱そうなお年寄りがマスクをつけずにある停留所から乗ってきた。すると、乗客の40代くらいの男性が、「マスクしろよ、じじい。」と怒鳴り始めた。お年寄りは、マスクを持っていないらしく、頭を何度も何度も下げて謝っていた。怒鳴っていた男性は、怒りがおさまらず、「マスクしないまま、バスに乗るなって。みんなの迷惑なんだよ、じじい」と暴言を吐き続けた。
 私は、そのお年寄りを気の毒に思った。その方は一言も言葉を発することなく、ただただ頭を下げて謝っていただけで、飛沫は一切飛ばしていない。でも、その怒鳴り散らしていた男性は、マスクは一応していても、小さい形だけの布マスクで鼻も口も完全には隠せていないし、あれだけの大声で怒鳴っているのだから、飛沫が飛んでいる可能性は否定できない。さて、どちらが人の迷惑となっているのだろうか。
 世の中はおかしなことばかりだし、矛盾だらけだ。庶民は働いても、働いても楽にはなれないし、それでも物価はどんどん上がるし、税金も上がっていく。大卒の30年前の初任給と今の大卒の初任給は驚くべきことにほぼ変わっていない。先進国でこんなに長期間給料が上がっていないのは、日本だけだそうだ。
 電車やバスに乗って、人間ウォッチィングをしていてもみんながみんな死にそうな暗い顔をしている。覇気がない。それぞれが無表情でスマホを操作している。誰も周りを見ない。
 こんな状態だから、同じ車両で不審者がいても気づくのが遅くなってしまうのだ。先日も携帯でドラマを見ていた女性が電車内で何者かに長い髪を切られた事件があった。動画に夢中になっていて、女性が気づかないのは理解できるが、同じ車両にいた周りの人間が全員、その犯行を見ていなかったというのだからさらに驚きだ。
 きっと、周りの人々もそれぞれが自分の携帯画面に夢中になっていて、同じ車両の女性の被害に気が付かなかったのだろう。恐ろしい世の中である。
 私が学生の頃には携帯電話などはなかったので、若者はせいぜい文庫本や雑誌を読み、中高年は新聞や週刊誌を読んでいたが、同じ車両に他人の髪を切るような異常者がいたとしたなら、すぐに誰かが車掌に言いに行ったり、周りが「危ない!」と声を上げたりしていたはずだ。
 文明の進歩が生活を便利にした事は否定できないが、思わぬ落とし穴がある事も事実である。SNSによる犯罪もパソコンや携帯が世に出るまではなかったわけだし、匿名での誹謗中傷や陰湿で酷いいじめも急増してしまった。
 人間の持つ闇の部分が明るみになったのも、この文明の発展のなした業なのだ。私たちの人間社会はこの2、30年くらいで本当に一変してしまった。
 人はみんな生まれて、例外なく死んでいく。しかし、将来永遠に生きる技術が出来た場合に備えて、億万長者の何人かは自分の遺体を冷凍保存しているともいわれている。そんなことがありえるのだろうか?大体、そこまでして、この世で生きたいものなのだろうか?
 私は小さい頃から、人間が死んだらどこに行くのかが不思議で仕方なかった。死んだら、すぐに体が冷たくなって硬くなるし、急にろう人形のようになってしまう。そのあと、お葬式をして、焼却して、灰にしてしまう。ほとんど何も残らず、小さい骨と灰と化したものを壺に入れて持ち帰り、しばらくしてから納骨をする。
 人間なんてあっけない生き物だ。何のために人はこの世に生まれてくるのか?そもそも死んだらどうなるのか?
高校生の頃、校長先生だったシスターは、「私は死んだら天国に行きます。そして、亡くなった母と妹と再会します」と朝礼で話していた。死んだら天国に行くことを確信している様子で、私にはそれが不思議で仕方なかった。どうしたら、そんな確信を持てるのかと。
 クリスチャンたちは自分が天国に行くと確信している。由香もココもそうだ。私も天国には行きたいとは思う。だけど、クリスチャンだけが天国に行くというのは、不公平ではないのか?クリスチャンではなくても、良い人はたくさんいる。ほかの宗教を信じている人にも良い行いをしている人もいっぱいいる。なぜ、クリスチャンだけが天国に行けるというのか?
 いや、クリスチャンだけではない。イスラムの人も死んだら天国でハーレムだとか言っていた気がする。宗教を信仰している人たちは、それぞれの方法で自分たちだけが救われると教えている気がする。やっぱり、おかしい。私には宗教は無理だ。

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