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過去の短くない結婚生活での擦りこみ

世の中大手は9連休のところもあったようですね。
私は本当にカレンダー通りで、赤い日がお休み。あっという間に過ぎていきました。

連休初日の昨日は、お隣の県までドライブに行ってきました。
最近ちょこちょこ遠出することが増えたんですが、ドライブはやっぱり楽しいですね♪

さて、きょうは無意識にすりこまれた結婚生活での感覚について。
結婚生活を経て、元夫2号との暮らしで変わってしまった私の意識についてお話していこうと思います。


ドライブが嫌い

さっそく冒頭部分と矛盾しまってますが笑。

私、もともとはドライブも旅行も好きなんです。
運転するのも好きだし、助手席ももちろん好き。

現実逃避が好きなので、お出かけは好きなんですが、行き先を決められない優柔不断も実は私の本質にありまして。

だから私は「連れていく」より「連れてってほしい」他力本願なんですよ。

もちろん自分で行きたいところがあれば、自発的に動いて旅行もするんですけど、結婚して子供もいると好き勝手に一人旅というわけにもいかないじゃないですか。

だから、「どこか旅行したいなー」「ドライブで遠出したいなー」と思っても家族でどう動くかが大前提で思考が始まるわけで。


私は、2番目の元夫とは8年の結婚生活を共にしました。
彼も運転が好きなタイプで、再婚するまで独身貴族生活だったのでラグジュアリーな旅行を楽しんできたのに、子連れの私と再婚したことで、行きたい先も「子供と行けるところ」に制約されることが増え、「行く当て」をなくしてしまったわけです。

そうすると、旅行するにもドライブいくにも、ちょっとどこか行こうかってなっても向こうはきっと私たち母子が決めた方が、家族のためになるとおもって譲ってくれてたんだろうと思うんですが、それが旅行だけに限らず、なんでも決定権が私に回ってくるようになりました。

そのうち私は「私が決めなきゃ」と思うようになり、私が決めたことに、意見があると何も決まらなくなるわけです。

ほら、出かけた先で「お腹空いたね、ご飯どうする?」ってなることよくあるじゃないですか。

あの時に、「なんでもいいよ」っていわれたら、「じゃぁ、イタリアンにしよっか」とかって提案するじゃないですか。

提案するのに次々と、理由を付けては却下される問題w。あれが、外食だけでなくあれこれ出てくるわけですよ。行き先、食事…。

だんだん私は元夫と出かけることが憂鬱でしんどくなり、いい加減ドライブも嫌いになってしまいました。そうして遠出も旅行もいかなくなり、ずいぶんと小さな世界にしてしまいましたね。

「話し合えない」が当たり前の苦しさ

ドライブが好きだった自分を忘れるほど、結婚生活というのはジワジワジと感覚を変えていくんですね。

現在のパートナーは、おまかせしたら私の意見を取り込みながら決めてくれるのですごく気持ちが楽なんです。

でも擦りこまれた感覚を自覚した時、私は結構ショックでした。

普通大人同士で物事を決めるときは双方の意見を聞きますよね。
その意見を考慮して結論を出すのが普通。
その過程に「話し合い」というのがあって、これは双方に受け皿を持って相手の意見を聞く耳を持つという事です。

話し合おうとしたときに、発達障害の特性の一つ「多弁」が発動した時のしんどさったら…

多弁とは 一般的な人と比べてしゃべりすぎなくらい「よくしゃべる」という人のことを多弁と言ったりします。 とにかく言葉が多く、こちらが入る隙もないくらいのマシンガントークが出ることもあります。

元夫にも多弁症状が時々出てて、私はだんだんと精神的に追い詰められていくものになりました。

これが話し合いの場で出ると、こちらの主張をするスキがなく、そもそも私が始めた話の主導権は奪われて、話題は脱線して終結するのです。
…って終結になってないんだけどさ。

だからいつも話したいことは1~2割しか話ができず、どうしても伝えないといけないことは、簡潔に短文で伝えて多弁が発動しないようにしてました。

そうやって話し合う場が持てないことに慣れていくと、私もそれが普通になってしまうのです。

矢継ぎ早を避けるには

多弁対応・多弁回避を必然的に身に着けざるを得なかった私。

離婚して、普通の人と話をする機会が増えると、反射的に「多弁封じ」が出そうになります。

多弁封じとは、簡単に言うと、先回りして言い伏せようと相手の話をさえぎってしまうので、一見気が短い人になってしまうのです。

多弁が発動してしまうと、私がこうしたい、と思っていることをいう時間が与えられない、そうなるとやりたいことができずに終わってしまう。

この消化不良が毎日だったわけです。

その中でもしなきゃいけないこともあると、どう考えても聞き役で終わるには非効率な場合などは、こっちが先回りしないといけなくなり、脳みそフル回転しなくちゃいけませんでした。

これが染みついてしまってることも、自覚するのは離婚したずっと後。

「普通に感動」する始末

現パートナと買い物をしたり、ドライブ先を決めたりすると、毎回ちゃんとお互いあーしたいこうしたい意見をだしあって、両方にいいように決めてくれて、段取りまでしてくれる。

私は、これまで家庭にもう一人の大人がいながら、「私が全部しないと事が始まらない」と自然と擦りこまれる現実があって、実際段取りも全部していました。

もちろん私の思い込みも少しはあったと思います。でもこっちで決めてしまわないと、小さなことからひとつひとつ確認する工程がものすごく多くて結局私が付き添って段取りをするしかなかったりで時間もかかって大変だったんです。

今、そこから離れて、普通に話し合って、汲み取ってくれて、おまかせできるという、大人同士では至って当たり前のことができることに、毎回些細なことから感動しています。

買い物一つ感動してる私

ほんとにね、私の感動するレベルが下がりすぎてよくないんですよ。
ありがたみはすごくあるけど、これだと世の中のすべての普通の大人が普通にしてることに「あなたすごいー!」ってなっちゃうので、私はすぐ人に騙されてしまいそうです。

今日も犬のお散歩グッズを買い替えるために、パートナーとどれがいいか、何色がいいかという何てことない会話をしてまして。

その中でも、用途と可能性をちゃんと想定してこれがいいとおもうけどどう?と提案してくれて。

これが普通なのわかってますよ?
感動するところじゃないのもよーくわかってます。

だけど、このありがたみが感動しちゃうんですよねぇ…。

そして同時にね、私ここまで一人で背負いこんでたのか、って毎回へこむんです。普通だと思うようになってしまってた状況と自分にへこむんです。

「普通」は贅沢だって一度目の離婚でも思ってたけど、今再び同じように思ってます。


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