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ペットの王様(1)
すっきりした上品な香りが鼻腔をすり抜け、張り詰めていた気持ちが途切れる。顔を上げた遥の目には、曇りのないさわやかな青空に向かって咲く、白い木蓮が映る。花びらと同じ方角を向き、つぼみが今にも咲こうとしている。この香りだ、とつい口元が緩むと背後から頭を押さえつけられた。
「何をにやけとんねん。行くぞ」
一緒に隠れていた男が、遥を追い越し、木蓮のつぼみが指していた建物の方へ飛び出した。遥も慌ててその背中を追いかけて走り出す。
男が初めて家を訪ねてきたのは、猫のモカがいなくなって四日目のことだった。
海外から帰ってきたばかりのような、妙に派手な幾何学模様の上着に、くるぶしが少し見える太めのパンツを履いていた。見るからに胡散臭い雰囲気が漂っている。ちりちりした長髪を一つにまとめ、遥と母親を見つめると黒縁の眼鏡を持ち上げた。
「じゃあ、まず猫がいなくなった状況から聞かせてもらえますか」
部屋に入った男は、自己紹介もしないまま、関西なまりのイントネーションで、モカが逃げた日のことを聞き始めた。母がにこやかに状況を話すと、男はモカの特徴や好きなおもちゃ、モカだけでなく家族の生活スタイルなどを簡単に聞いた。
「はい、大体わかりました。捜索はそんなに難しそうやないんで、引き受けます。おそらく数日で連れて帰って来られると思いますよ」
簡単に手続きと料金の話をした後、モカの写真を手に部屋を出て行こうとして振り返り、遥に馴れ馴れしく声をかけた。
「モカはあんたになついてるようやから、見つけたら確認を頼むわ。俺のことは、レオって呼んでくれや」
漆黒で分厚い眼鏡の縁をまた上げた。
今思えば、モカがいなくなった日は嫌なことばかりだった。朝、出かける時はいつも台所の所定位置で眠っているモカを確認するが、朝の時点で既にその丸っこい姿はなかった。どこかの窓辺で日向ぼっこでもしているのだろうと特に気にもとめず、自転車にまたがった。
遥の朝の日課は、上履きを探すことから始まる。だから、毎朝高校には早めに着いていないといけない。たいていは下足置き場の近くの草むらに捨てられていることが多いから、先に上履きを探してから教室に入るのだが、その日はどこにも見つからなかった。掃除用具入れやゴミ箱の中も探したけれど見つからず、結局靴下のまま教室に入った。
「また上履きなくなったの?」
教室に入ってきた志織がそう声をかけた。
「わざわざ毎日靴を隠すなんてさ。何なんだろうね」
遥が言うと、志織はうなずいて笑った。
「後で一緒に探そっか」
志織はかわいらしい。小柄で色が白く、にっこり笑うとえくぼができる。入学してからずっと、遥の唯一の友達だ。何の原因もなく突然に、誰がやっているかわからない靴隠しが始まって、クラスメイトが一人ずつ遥に話しかけなくなっていった。それでも、志織だけはいつもの笑顔で話しかけてくれた。
結局、上履きは女子トイレで見つかった。便器の水に浸かり、つま先に書かれた名前が遥の存在を主張していた。
「ひどい……」
背後から志織の声がしたけれど、振り返ることができなかった。他の誰に見られてもよかったけれど、志織にだけはこんな無残な姿を見られたくなかった。同情されるのは恥ずかしいし、何よりも志織までもが友達でなくなるのが怖かった。
誤って上履きを水没させたと伝えると、担任の高梨先生が緑色の来客用スリッパを持ってきてくれた。
「何だよ、遥。誰かにいじめられてんのか」
そうして茶化してきたけれど、逆にその言葉が重い。足裏が真っ黒になった靴下で、スリッパを使うのが心苦しい。足下にひざまずいてスリッパを履かせようとした高梨が嫌だ。
「最悪」
遥が思った言葉を、先に言ったのはクラスメイトの有里香だった。顔を上げると、女子生徒で垣根を作り、その牙城にいる有里香と目が合う。視線をそらされ、代わりに垣根の方がこちらをにらみつけた。知っている。有里香は高梨に好意を抱いているのだ。
それが原因なのか、次の授業ではノートがなくなり、宿題の提出ができずに先生に怒られた。別の授業では、教科書を出そうとしたら、女性の裸が表紙の雑誌が出てきて、先生から怪訝な顔をされた挙句にみんなの前で没収された。目に入った隣の男子生徒の顔があまりにも赤くなっていた。彼の本なのだろう。
教室の中で、誰も声を発していないはずなのに、背後からたくさんの笑い声に包まれているような気がする。みんなの視線が攻撃してくる。
そして、家に帰るとモカがいなくなっていた。遥は夜遅くまで近所を探し回り、母親が「また明日にしよう」と何度も声をかけてきたけれど、家に帰る気にならなかった。