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雪国のこと・遠くへ行きたい

雪国・七ヶ宿というところ

 ここ七ヶ宿街道は歌謡曲「遠くへ行きたい」が歌詞のモデルになっているとは七ヶ宿街道沿いの人達が勝手に発想したのかは知らないがよく知られている。古い人たちで歌謡曲の好きな人ならだれもが知っている「永六輔」の詩がそのように背景を想わせるような、ある意味日本国中にそのような風景の地があると思う。

この地、七ヶ宿街道は東北六県にわたる奥羽山脈、蔵王連峰の連なる高度7~800mの裾野を下る白石川沿いに湯原、峠田、滑津、関、渡良瀬、下戸沢、上戸沢と宿場が続き白石・仙台への街道である。
七ヶ宿は羽州(山形)に入る街道として湯原から一つは二井宿峠越えの道、一つは金山峠を越えて山形県へ続く道がある。
 小生の疎開先は二井宿村であって七ヶ宿の一つ湯原の二井宿峠越えの最初の宿場があった。戦後間もないころ、湯原の中学生は高校を白石の高校へ行くより便利だったせいもあり、山形県立高畠高校へ越境入学者(多分許可されていた)もいた時代があった。今は、利用者が少ないのか高畠-湯原・白石へのバス便は廃止になって久しい。
冬は湯原も大雪となる、温暖化で少なくなったとは言え二井宿峠越え二井宿も雪は第2豪雪地帯と言われていた時期が40年代半ばまで続いた。
 小生の一人の女子の同級生が「(二井宿峠)峠の茶屋」江戸時代から営業している家の子であった。彼女は冬になると雪のため登校できなくなっていた。ほぼ1,2月は休校していた。また、ある年度の時、体を悪くして数か月、登校できないことになった。春、雪解けで雪が少ない日にスキーをもって同級生が全員でお見舞いに行ったこともあった。帰りは、スキーのできるものはゆっくりと滑りながら楽しんで帰ったものである。あるいは、夏休などの帰省ではハイキングのつもりで二井宿峠を越えて湯原まで行ったものである。
    


二井宿峠下 大滝川ダム

会社勤務の時代は、両親が住む二井宿に立ち寄って一泊し翌朝仙台へ行くためタクシーをたのみまさに七ヶ宿街道を通り、東北新幹線、白石駅から仙台に出たものである。その意味でも随分と七ヶ宿街道、高原は思い出深い。また父は画家だったからであろう、街道沿いの白石川に「材木岩」という見ごたえのある風物の所があってよく素描していた。湯原の白石川上流の方には岩魚が多くいて父は友人とよく釣りに行っていた。 また水芭蕉の群生地もある。とにかく、宿場町で七ヶ宿街道は二井宿峠を越すと白石川沿いに、湯原、峠田、滑津、関、渡瀬、下戸沢、上戸沢と白石川を下る高原の邑である。都市部を離れた、山裾、山の入り繰りがあり、七つの宿場がある。箱根や、高山が多い南アルプス、北アルプスに囲まれた長野県とも違った風紀の高原であった。江戸時代は参勤交代の通過宿場、物資輸送の通過に賑わいの街道であった。

表題写真1960年湯原あたり

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