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独居の独り言・尾道への一人旅

病態が落ち着いた一人旅(2006年11月)
 
 人は永い、短いにかかわらず、息づく生活の律動がある限り、喜びも、悲しみも、苦難も多種多様に在るに違いない。
2005年8月12日、新潟県、燕三条へ行った時である。
ある亡くなった幹部社員の新盆に訪れ、辞したのち、前工場長と打ち合わせのために某ホテルのロビーで待機している時であった。いきなり体が痺れ始まり麻痺が起き、意識が薄れ始まって、人の声は聞こえるが発声できない、それを若い子供ずれの人が救急車とフロントの人に言い某労災病院へ運ばれ、目が覚めた時には、鎌倉から妻と、長男、前工場長が、ICUに午後8時に来てくれていた。自分のさらなる苦難な日々が始まった。
しかし、最終的には難病指定になったけれど、それまでの、めまいや、バランスを崩し倒れることも、カトリック系統の病院で施療と服薬の適合がよく落ち着いたのであった。その時はまだ難病指定とはなっていない時期である。この落ち着きと体調の良さは回復できたものと思ったのである。
それまでの病態の拘束感を打破するためにも旅に出ることにした。
 
ここに記すことは 追憶であり、過去の事跡をゆったりと追想する今、老人特有の証みたいなものである。
 一方では、折々に追想観があり悲哀感があろうと、病態であったとしても、ある意味“ゆたかな人生”の証でもあり老人であればこその特権でもある。
その意味で、独居の独り言もまた「この人生、感慨無量だ」・・と、想し、この尾道への一人旅もまた、感慨無量である。
 
ゆっくりと曲がりくねった、細い道を登り、振り返ると来た道の角度がかなり急坂のところもある。階段が多く、瀬戸内海の港、造船所、島々を濃淡に遠望させてくれる。

瀬戸内しまなみ海道遠く

筆者は風光明美なところを探し当て自宅も森の中、裾野、坂道を上がったような小高い山の尾根に住居があるのが良いと想っている一人である。
現在住んでいる場所も裏は余り手入れをしていないが竹林(春はタケノコが夥しくここ彼処でにょっきにょき出てくる)であり登りきる(わずか30メートルほど)と広大なお寺が見えて戦後育ったY県の山奥の故郷の里の秋、春の桜のころの面影が実によく映し出しているように自然界が残っているところである。
    しかし、ここ尾道の坂道はゆっくり、ゆっくり歩いて登るも、胸の鼓動が激しく、ぜいぜいと呼吸していた。駅を出るときお客さんどちらから見えたのですかと尋ねられた。「鎌倉からです」遠くから、ご苦労様です。尾道は坂道が多いので足元にご注意ください」と気遣いと労いの声をかけられた。多分、高齢者の一人旅とみられたからだろう。
  確かに想像はしていたのだがなるほどと納得しながら歩く・・。しかしそうは言っても遠くの島々に連結している、まさに「しまなみ海道」が展望できたとき感嘆の声を発したのである。いつかあの瀬戸内の大橋を渡って四国に行きたいと想う自転車と歩行で・・・まだ実現していないが、必ず。またある場所で右に折れて歩きだしたら、住宅が水道を中心に建てられているとのことで左右に住居並んでいた。東京の下町的住居とも似ているがまた異なった静かな風情の通りとなっていた。やはり平日のせいかひっそりとしていたのである。しかしそこに馴染んで暖かい交流をして暮らす人々の風紀が体に伝わってきた。自分でその雰囲気に没しながらゆっくり歩いたのである。

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