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朝ドラ,牧野博士に、伊藤先生(故人)を想う


  上京して2年目学期末(定時制)のテストが終わった数日後の事である。
学校へ行くと「物理・化学」の谷村先生(仮名)に職員室に呼ばれ、行って見ると「君はもっと勉強したいのだろう」と言われて「はい」と答えたら「実は東京教育大学(のちの筑波大学)理学部の伊藤教授が夜間高校生を一人自分の研究のために簡単な手伝いをしてもらいたいので誰か推薦してほしいと言ってきたので、私は君を推薦したいと思う」と言われ、ただ給与が5500円なので1000円ほどたりない、よくご両親と相談してみたら・・と、結果として両親も喜んで了承、その数日後、東京教育大学理学部の伊藤先生(教授・理学博士、当時秩父博物館長、駒場の東大博物館長、屋久島の植物研究者)へ谷村先生と訪れ、面接していただき、何時から来てもらえますかと・・。「夏休みが終わった9月から」と答え、教授はちょっと鼻を膨らませ笑顔で頷き、そのあと、「ちょっと植物学教室を案内しよう」と・・・。先生専用の「植物」の標本室、や二人部屋となる事務室(標本室の並び)を案内してくださった。
歩きながら、牧野富太郎博士と同じ、高知県出身であり東京大学時代から亡くなっても師と仰ぐひとだと、また戦争中はフィリッピンまで軍人として遠征し幸運にも無事帰国できたなどと、さらりと語ってくださった。
勤務するようになってからは主として午前中は植物の標本に関係する仕事を教えられて作業をして、午後は6~70%は自分の勉強をしていいとの暗黙の了解であった。とにかく勤務時間は9から17時までではあったが・・・。その作業以外周辺の清掃、教授の講義のための準備のちょっとした仕事(講義上使用する植物標本を標本室から引き出して備えておくなど)、勤務2年目で、君、お父さんが画家だから君は描いてみてくださいと、「シダ」の実物を渡されて試しに、夏休みに、鉛筆でいいよ、とにかく実物そっくり描写してください。よければ、図鑑にそのまま使用すると言われ、夏休み田舎の両親の下に帰り、画家である父と相談して描写、休暇明けに教授に提出したのであった。先生はそれを見て、例によって笑顔で鼻を膨らませて“うんうん”と頷いていた。それを適用するのは、先生はシダ類の小型の図鑑を出版に使用するかもしれないと言っておられた。その事実は19歳で先生の所を去ったのでわからない。バイト料として自分の給与の五分の一ほどの多額な料金を下さったのであった・・・(特に貧乏学生の小生のためだとは感じていた)。さらに、自分が、文部省の大学入学資格検定試験に合格した時、「モンブランの万年筆」をお祝いにプレゼントしてくださった。また在籍している間、奥様はパンの差し入れや、下宿先の斡旋をしてくださり、盆暮れに先生を通してプレゼントを頂いた。
 小生が勤務する前に、牧野富太郎先生は既に無くなっていたのだが、伊藤先生は「牧野先生はなかなか長命な人だったなあ」と言っていたのを思い出すが何しろ小生のいる時代博士課程に居られた方Uさん、Mさん、亡Iさん(科学博物館の研究者・世界蘚苔類学会長をされた方)東大大学院博士課程修了(理学博士)を出られて、教官として伊藤先生の研究室に居られたKさんなど、また筑波大学の第2代目の学長をされたMT先生などに囲まれて勤務した貧乏学生だった時代が懐かしい。小生は半端な高校生として素晴らしい方々に囲まれて過ごした環境は自分のこれまでの人生に大変な律動を与えられたのだ。老いた人間と言えど消えぬ追憶か・・
また、ここに書ききれないが、牧野博士は高知が生み出した世界の植物分類学者と同様に伊藤先生も博士課程に居られた「世界蘚苔類学会会長」をされた、IHさんも高知出身の方が目につき、やはり直接触れ合えたわけではない、牧野博士(実際、高知の記念館にも訪れた)の伝聞でも、忘れたことはない。余談だけれど、科学博物館の植物標本の中に故郷の「コウヤワラビ」採集者の一人として小生の名前が記された標本がある。案内した自分の名前を当時、博士課程のUさんが採集者に連名としてくださったのであるが・・・。
また伊藤先生ご夫妻に結婚の媒酌人をして戴いた一人である。小生の妻は今はいない。

2022年11月末 夕景富士(修善寺方面から)

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