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独居の独り言(豊かな人生路)
豊かな人生は周囲の人々のお陰
自分の人生を振り返ってみることは、八十路を超えた一人生活だからであろう。だが、年を重ねてきた生き様を思い出しながら、今日の「自分自身の人生この方」の折々を思い起こすとき「いろいろあったにしても豊かな人生路」と言う感覚と「自らを取り巻く人々に命の息吹や気概、情熱を引き出す意思力」の自己形成を暗黙の中にヒント、あるいは示唆を与えられてもらい現実の社会を今日まで生き抜いてきたとの憶である。八十路を超えたからこそますます、其の想いである。
とにかく、自分にとっては素晴らしい出会いを幾たびも重ねて貰えたということである。それは自ら得も言われぬ味わい深い路線を走らせていただいたのだとのまさに感謝の念に堪えないのである。
特に結婚以来の50年の道のり、わが生き様を自由にさせてくれた,
亡くなってしまった妻には言い尽くせないほど感謝、感謝である。
今、八十路を超えた高齢者の中でも日本の日華事変から始まり太平洋戦争の一年ほど前にこの世の生を受け、
そして1945年8月15日昭和天皇は連合国に対して無条件降伏を受け入れ国民へ敗戦を発表したのである。このことで振り返ると、東京、下町の向島に住み敗戦前後には、物心が目覚めてきたころであり、軍隊、戦地に応召、次から次、赴く大人を駅頭で送り出すとき、何回もバンザイを叫んでいたこと、母は乳飲み子の妹を背に負い、4,5歳の自分と手を繋ぎ、京成電車で松戸まで一週間あるいは4,5日ごとに警察官が駅で目を光らしている中、米や、やさい類を求めて農家に何度も買い出に行ったことを思い出す。
また1945年3月10日の米国軍の空襲で近所の大人たちと退避場所を右往左往して、混乱する通路を歩き、手を引かれて必死に走った事、最終、隅田川の天神橋近辺の堤防で毛布をかぶせられて夜を過ごしたこと、反対岸の堤防を浅草は火の海となってそこから逃げ惑う人たちの火災で照らされて堤防を走る多勢の人達の影を見ながら大人たちが悲鳴を上げて見ていた。また空襲が静まってと「家はもう焼けているだろうけれど、行って見ようと」あきらめ感で着いてみるとなんと住んでいたその地域一角が燃えないで残っていて、驚嘆した声を上げ奇跡だったようでお互いに信じられないと、一時,
喜び在っていたのを思い出す。戦後、中学卒業後上京2年目のころであった近所の人がその後も永住していた、またそこに住む親しくしていたBさんの長男はやはり、都立H高校で同窓であったことにびっくりしてKちゃん食事しにお出でよと言われて訪ねたらそこの姉妹の方たちも待っていてくださって楽しくご馳走になったりしたものである。
あの空襲は子供ながら脳裏に焼き付いていたのであり今日でも、3月10日、敗戦の日には思い出さざるを得ないのである。
その後、定義付けるつもりはないけれど空襲後,
山形の祖母住む地へ疎開して、それが東京生まれの私の人生に影響を与えられたのも否定できないと思う。
疎開後は、山間、澄み切った冷たいけれど気持ちのいいせせらぎの側に間借りして住み、静かな平穏な環境であった。
この静かな山村に、1945年7月釜石、仙台への米軍の艦砲射撃があり仙台から直線距離数十キロであるにしても落とされる爆弾の落ちた鈍る重音が低いけれどひびき聞こえて、大人たちはそれを知り周辺の人と日本は完全に負けると言っていたようである。
そしてわが人生は、そのような、成長、命の紡ぎ合いの中、その地の小、中学校を卒業、再び家庭の事情で東京へ一人で戻ってきた。そこから本当の人生が始まったのである。
しかしそれ以降、素晴らしい人に恵まれた自分であった事、今思う、豊かな人生路を歩ませてもらったものであると・・・
写真 2017年11月 厳島神社