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独居の独り言(引っ越し魔?)

引っ越し魔と独り暮らし
 この人生、転居が多すぎたような気がする・・その様相を他人に話したりすると、「へーすごいね、どうしてそんなに転居したのかね?」と言う人、中には「話を聞いてみると、環境のいいところ、住みやすい所でうらやましい。移転したくとも拠無い諸事情によって移転などしたいけれどできなかったよ」またある人は、今住む家を全く移転などしたくないね。私は保守的で安穏、ひとところに住んでいたいし、今のところを離れたくないね」、転勤ばかりで一所に3年といついた程度、定年まで、転居10回以上だ」と言う人もいる。
 
それと比べれば、大転居は、経営者として蹉跌した時が、諦念的引っ越しだった。住み慣れ始まって15年朝開け、夕焼け富士山を眺望できる住まいだった。この家で残り一生過ごしたいと質素だが、緑に囲まれた、鎌倉時代の遺跡がのこる位置に建つ家であった。
そして今、天城連山の一角に住むという、わが宿運としか言いようがない。新婚時代(S46年)から結婚以前は、中学卒業後、上京、東京都浅草周辺の工場の寮へ(叔母の家にはおいてもらえる部屋が無かった)、その1年数か月後、転職先が大学の某教授の下で教務補助員(雑務、植物の標本作り)として、文京区茗荷谷のS寺の用務員の出た、わずか3畳敷の小屋ともいえるところに2,3か月いた叔母の家を出て、一人暮らしへの移転、大検合格後、大学入学試験準備のため、1年ほど故郷山形へ、国立T大学受験に失敗、結果経済的問題もあり、航空自衛隊へ、籠原、福岡県芦屋、羽田空港、市谷基地へ(防衛庁内航空自衛隊)へ民間会社へ入社・勤務(渋谷)のため、練馬区富士見町の賃借家屋へ移転、さらに、日暮里周辺の、上野公園・東京芸大裏手へ、さらに社が大田区上池町へ本社移転のため大田区池上特持町へ下宿、転職で荒川区三河島へ移転、その入社先の本社が渋谷移転のため、世田谷区等々力へ、そしてこの時点で結婚して、港区南青山のマンションへ二人の住まい(実際には妻の祖父母が住んでいたがそれを二人のために明け渡して住まわせてくれたのですが)結婚後、二人は普通の家屋へ住みたいので土地探しをして妻の祖母の兄の家が埼玉県上福岡に長年住んでいたので、駅まで徒歩10分ほどの川越市に新築・移転、子供3人も受けた後、妻の育った地である鎌倉市・北鎌倉へ移転、古家を購入立て替えて新築、小住宅(28坪ほど)さらに子供が増え4人になったので近辺の土地を購入、富士山の朝晩見晴るかすことのできる場所へ新築移転、家族全員4人の子供が大学卒業した3年後、小生経営の事業を蹉跌、家屋とも某銀行に担保処分されるため移転東京都南長崎へ一年ほど、某女優(大変有名な人・新年に呼ばれてお屠蘇を頂いた)の持ち物マンションへ賃借移転、その後再び鎌倉市妻の中高校の近辺の家屋へ賃借(裏が竹林でその地も賃貸主のもの、敷地4000平米アトリエとしての家屋に移転、そこに妻との二人生活22年、その後、独居で天城連山の下へ移住、15年ほど前に温泉付きの周辺景色がよい所なので独居生活をものともしない・・ちょっと大げさかな、ただそれほどの不便さは感じない。ライフワークとするものを抱えて、自然界と社会との多様な交錯を持ちながら静かに端然と暮らすことを希望していたので最適な日々である。後期高齢ではあるが、夜明けとともにかわいい野鳥のさえずりを耳にして起床、さわやかな早朝、やや高台のせいか熱帯夜は極めて少ない、家自体は湿気があまりない。
小生は、人間的に半端な一人であり、中国の詩や古典を吟じ、書筆、史学研究(総合文芸、経済・経営、会計学など)も実に未発展途上の一人に過ぎない。最も人生に完成などと言うことはあり得ないけれど、好きなようにやって、好きなように半端な人間なのでしょう。
唯一言えることは、どこに移転しても自分の書斎は持っていた。現在まで健康体で丈夫な体質なようである。しかし、こんなロートルは何時何に直面するか予測はつかないのも、当然なこととして受け入れていますが・・・。

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