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独居の独り言(わが人生感と父母)

晩稲、半端な、わが人生感
人の生も死も好悪を自ら選んで為されるわけではない、普通の人であればその意識は変わらないと想う。中には自ら命を絶つ者もいるが・・・。
しかし、一度、生を受ければ周囲からヒントを与えられて応用行動を展開するかしないかである。始まりは、見よう、見まねで始まるのだ。やがて、生活の年輪を重ねながら、自ら熟慮するかしないか、人生の歩き行く方向性や生き方をとらえて、命の紡ぎを進めているのであり自らの体質的、精神的構造や構築はその生活行程の中で変動や変質も、自らを取り巻く自然の、社会のすべての環境から多様な要素要因によって絶えず死と言う限界点まで続くのだと想う。
 
こんな話、独り言だからつぶやいて認識しているに過ぎない。このことは結局、社会環境や自然環境によって人間として避けて通れない歩みとでも言えようか・・・。
八十路を超えて、今身近に寄り添われていることは「死」という現世離れの近づきである。このことは広く言えばすべての人にとって極めて普通のことでありはすることでも、現存して命ある限り、特に高齢者になれば、いずれにしてもその日は近づいており、高齢者が集まれば言わずもがなではあるが話題の筋々に口開き賑やかしく結論として誰もが「子や他人に迷惑感が少ない状態で迎えたい」と・・・。
しかしそのこともそれぞれが自らは不明なことある。

 そんなことを考え、その人生のモデルとし父母のことを振りかえって観た。
祖母が「ころり地蔵」を先祖代々引き継いで神棚に置いてあり、毎朝、「コロッと逝くように」と地蔵さんの頭を掌で何回かなでながら祈っていた・・それを思い出す。うん、そういえば母も同じことをしていたなー・・。25センチほどの地蔵さんの歴年、手で撫でられて頭は黒光している。これは我が家の仏前に今でも鎮座している。
祖母も母も、余り娘、息子に負担掛けない方ではあるけれど、ボケたなあとは感じていたが死ぬまであまりてこずらせないで亡くなっていった。母などヘルパーさんに来てもらって介護していたが寝込んでも朗らかで、話好き歌好きで、戦前の歌(旅の夜風やシナの夜、誰か故郷を想わざる・・など15曲ほど)それに戦後のそして、昭和3,40年代のフランク永井の唄など歌集を作っていて諳んじていてヘルパーさんの前でうたを聞かせていたらしい。ヘルパーさんたちの人気者だったようである。明るい性格だったようである。父は日本画家だったので家計費は不定期で、母が働いて家計を支えていた。
父亡き後、17年間妻と三人の家庭生活であった。
母は2年間ベットに横たわった日々(脳梗塞で)であったけれど、身体上は不自由であったにしても、ぼけ老人・軽い認知症で、朗らかになくなっていったことは家族として介護は楽な方であった。
母は、父が日本画家であったので絵をだいぶ倣ったらしく色紙に描いたり、特注のえ付けでこけしなどにも描いていた。大正生まれの小学校卒でしかないけれど、父の影響で、教養度も高まったような母であった。字は良い字を書いていた。今、母からの手紙をみるとよくわかる。父は旧制中学卒、戦前の川端画学校に行っていたらしい。後に世界的な映画監督黒澤明も川端画学校の出だと言っていた。
 
結局、父母の人生は最後まで絵描きにまつわる人生行路であった。
それに反発したこともあり、自分の生き方を画家になる事だけは一切考えず、事業家、60歳以降は研究者として半端な人間であることをよく認識して、妻に先立たれたが、独居して生きながらえている。これもまさにわが人生だ。
 
 
人生観のチョイ談義をつぶやいたけれど、
カバー写真は山形県の寺院 
東泉院位牌堂の天井画(20枚)の一部

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