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独居の独り言:母への一節

 八十路超えて母への想い
 
 78年前、太平洋戦争の敗戦、1945年7月26日のポッダム宣言を8月14日受託、翌15日天皇自ら「無条件降伏」を受け入れることを痛切な声で全国放送して国民に敗戦の宣言をしたのである。
また同年3月10日は米軍が日本本土爆撃の最終章へ入った時期であり、東京大空襲を敢行した日である。B29の大爆撃は苛烈を極めまさに墨田区は隅田川沿いの浅草寺側はもとより、両国、錦糸町、亀戸が焼夷弾で片端から火の手が燃え拡がっていったことがくっきりと脳裏に刻み込まれている。そしてやおら、今度はこちらの方になると大喧騒の中を向島3丁目からの避難したことを思い出す。ある朝NHKの放送で其のことを93歳の高齢者の方が隅田川の橋で逃げ場が無く約3000人が隅田川に飛び込み夥しい民間人が命を落としたことを話していた。ご本人も其の中にいて背には子供を負ぶった(そのためご本人は背中が冷えず子供に助けられたと言う)まま川に飛び込み岸に上がったときには既に子供が冷たい水の中で絶命し、ご自分だけが生き延びて今日に至っているという。筆者は数え6歳の幼児であったが常にあの爆撃や上空から日本の戦闘機が攻撃され、ほぼ垂直に火を曳いて落下する状態を軒下で大人と眺めながら、恐怖感に駆られたことを思い出す。10000メートル上空の米軍軍用機には日本の曳航弾が到達せず、日本の高射砲の能力に人々がため息をついていたことも耳に残っている。筆者は母に手を引かれて行き水神橋の堤防で一夜をあかした。翌朝、爆撃・爆音が無くなったとき、近所の人と「もう家など焼けてないだろう」と母も近所の人たちもあきらめて戻ったら、ハモニカ長屋?を含め周辺一帯が爆撃や火災を被らず残っていた。大人の複雑な喜びと驚きを知り幼児の筆者も助かったと妹とともに母(ショートステイに行っている。94歳認知症・半身不随で寝たきり状態、)に抱きしめられたことを思い出す。母に対する想いも経年変化の日本を思い、隔世の感に浸ってしまうが、母が守ってくれて今日があることを3月10日になるとあらためて感謝の念が浮かぶ。
 その母は父が去った後認知症になって平成8年夏8月より山形の一人暮らしから、妻の同意を得て長男の筆者と3人で暮らしをしてきたのだが、認知症に加え脳卒中(死去2年前)に襲われ、以後寝たきりの日々を送って、平成25年12月にこの世を去った
それまで妻が主役で介護17年経ていた・・・小生は八十路を越えても、幼きころから母との想いは、未だに鮮明に浮かび、あの楽しさと辛さの遠く深い日々にしみじみ浸ることがある。

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