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なみおじさんと息子

 老人と幼児にはどこか似たものを感じる。

 産まれて間もない赤子と二人で自宅で過ごしていた時のことだった。赤子は一所懸命に私の顔を見つめていた。赤子というのは、一所懸命に何かを見つめるものだ。
 赤子に見つめられるのは悪い気分ではなかったので、そのまま見つめられていた。変な顔をしたり変な声を出してみると、まだ感情がはっきりと出ないなりに、何か喜んでいるようだった。

 私と赤子は、見つめ合いながらそんなことをずっと繰り返していた。そういうことは、いつまでだってやっていられるものだ。
 そのうちに、ある感覚がやってきた。
 赤子の目の奥が何か途方もなく深く感じられたのだった。まるで地球の裏側まで続いている井戸を覗いてしまったかのような。
 それは子供の頃、祖父や祖母に対して感じたものに似ていた。老人の目の奥は、途方もなく深い。

 その瞬間、私の中に去来したイメージは、輪廻転生の円環構造だった。そして自分は実感した。赤子というのものは、老人から地続きになっているのかもしれないと。
 勿論それは私の勝手なイメージでしかないのだろう。とはいえ、ふいに湧き上がってきたイメージというものは、何か論理や理屈を超えた力で自分の感覚を支配する。
 それは今でも私の中にはっきりと残っている。

 インドで使われているヒンディー語では、昨日と明日は同じ単語である。一昨日と明後日、一昨昨日と明々後日も同じだ。
 どちらも今日を起点とすると、同じだけ離れているからだろう。数学でいう、プラス3とマイナス3の絶対値(ゼロからの距離)がどちらも3であることと同じ考え方だ。輪廻転生の発祥の地、インドらしい。
 生と死の境目を起点、座標軸の原点とするならば、確かに幼児と老人はそこから近い距離にいると言えるだろう。原点が前にあるか後ろにあるか、違いはそれだけだ。

 前置きが長くなった。

 下の息子が「なみおじさん」と呼んでいる老人が、近所に住んでいる。はじめは「なみおばさん」と呼んでいたが、途中からおじさん(実際はお爺さんだが)であることに気付いたようだ。
 なみおじさんは身体が不自由なようで、その歩き方はスターウォーズのC-3POのようだ。いつも近所のスーパーまで、かなりの時間をかけて歩いて往復している。
 息子にはそれが面白く映ったようだった。

 なみおじさんは、私や妻が挨拶をしても何も返してもくれない。目を合わせようとすらしない。無視されているというよりは、彼には我々の姿が見えていないようなのである。
 彼の前では、自分が透明人間にでもなってしまったかのような気分になる。

 息子が四歳くらいの頃の話である。家の前の公園で遊んでいた時、電話だかメールだかの対処をしていて、少し息子を見失ってしまった。
 公園の奥のほうに目をやると、一安心、息子はいくつか並ぶベンチのひとつに腰を下ろしていた。
 隣には、なみおじさんが座っていた。
 ふたりは並んで座り、友人同士のように談笑していたのである。

 まだ語彙のほとんどない四歳の幼児と、大人が話しかけても何の反応も示さない身体の不自由な老人。そんなふたりがベンチに座り、何やら話している様子は、私にはなぜかとても自然であるように感じられた。
 離れたところから、その様子を見ていた。ふたりの談笑はなかなか終わらなかった。そのうち私はしびれを切らし、息子に声をかけた。なみおじさんには、やはり私の姿は見えていないようだった。
 ふたりが何を話していたのかはわからない。息子に聞いてみても、そこは四歳児である。まるで要領を得なかった。

 時は流れ、息子は六歳になった。
 なみおじさんには、相変わらず私の姿は見えないようである。挨拶しても何の反応もない。今日もC-3POのような歩き方で、長い時間をかけて自宅とスーパーを往復している。
 彼が誰かと話している様子は見たことがない。
 それでも、やはり息子とはよく話している。理由はわからない。老人と幼児は近い存在だからなのだろうか。
 息子はなみおじさんと見つけると駆け寄っていって、いつも「やっほー」と声をかける。

 何度か、ふたりの会話が耳に入ってきたことがある。誰とも話さない、我々の姿すら見えていない身体の不自由ななみおじさんは、思いのほか淀みなくはきはきと話していた。
 なみおじさんが息子に話していたことによると、彼はどうやらある時に癌を患ってしまったようだった。一度は治ったものの、再発して今はその治療をしながら過ごしているという。
 なみおじさんがはきはきと喋っていたことにも驚いたし、そんな込み入った話をしていたことにも驚いた。息子は何ひとつ理解していないようだったが、二人はそれでいいのだろう。

 なみおじさんは別れ際、「○○ちゃんは元気だな。元気なのはいいことだよ」と言って、息子の頭をぽんぽんと叩いていた。息子の名前をはっきりと認識しているようだった。息子が教えたのだろう。

 その光景を、とても美しいと感じた。

 時は流れる。いつしか息子は子供ではなくなり、なみおじさんは居なくなってしまうだろう。
 その時まで、その美しい光景を見続けていたいと思う。


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