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高山~父の革靴

2018/07/05

父の事ですね。書くのが気が重いですが、なるべく残しておきたいです。

今しか、書けないかも知れないですからね。

つい一週間ほど前に医者に呼ばれて、会わせたい人が居るなら会わせて下さいと言われました。

家族と話し合って、生き残らせるたけだけの為の医療行為は断ってますから今は、食べられず点滴だけです。

少し前から、食べられないようになりましたね。

それでも、何とか意識があって答えたりしてました。

行くと全く反応しない事もあったけど、反応する時は色々何を言ってるのか分かりにくいけど、反応してました。

こないだは、声を掛けると目を開けたので僕の名前を言って分かる?と聞きました。

目で、分かると答えましたね。

妹や母と行った時はコーヒー飲みたい等と行ってたから、この一週間程で一気に悪くなってます。

僕と最後にまともに話したのが、お父さん頑張らないとねと言うと、もう歳だからと答えて来ました。

七十六ですから、一般的に言えば歳ですよ。

しかし、人にそれを言われたくないですね。

僕の父ですからね。

何気なく仕事場で父の話ししたら、そりゃ歳だからと言われてカチンと来ましたね。

良く知ってる人なら良いけど、父のこれまでも知らないような人から、歳だから等と言われたくないですよ。

父の人生は波乱でしたし、最後は寂しかったと思います。

三十代後半でトンネル工事の会社を興して、ある時期までは相当稼いでたけど、本人が何かを強烈に欲しがったとか無くて、名誉欲の強い人でしたね。

成金趣味に走らなかったけど、プライドは相当高かったです。

良い車や良い服は、母が社長なんだからと言うのであてがってたような所が有ります。

勿論本人も最盛期には、多少見栄を張ってましたけどね。

会社が潰れて、再生出来なくて脳内出血で倒れてからは、地味すぎる位地味に生きてました。

唯一の楽しみは、一円パチンコに母と行くのと甥っ子ですね。

父はギャンブル好きでしたから、一円パチンコでも相当意地汚いと母が嘆いてましたが、僕は自分自身が好きですから分かるので、仕方ないじゃんと言ってましたね。

僕は、好きだから行かないって事にしましたが、父には余りに楽しみが無かったから、そのくらい良いじゃないでした。

父は、自分自身の服装等は最低限でしたね。

引っ越す時に父の部屋を母が掃除してたけど、昔の物を幾つかきちんと取ってるだけで、後は最低限でした。

小さいラジオが有るだけで、それを寝ながらでも大きな音量で聞いてました。

その頃は、甥っ子を通じては話すけど、特に話すって無かったです。

同じ仕事をしてても立場が違ったし、父のような失敗はしたくないって僕に有りましたからね。

それに、父の個人的な借金も今でも払ってますから嫌でしたね。

それが、今では後悔です。

どうであれ、一生懸命働いて僕らを育てたんですよ。

それに、僕には父の血が濃く流れてるからトンネルの世界でやれてるのも、父の血が流れてるからでしょう。

父は入院してからは、仕事場は上手く行ってるかと良く聞くようになりました。

僕は、その度に上手く行ってるよと答えました。

近いうちに多分、まともに会話も出来なくなるでしょうし意識も混濁するでしょう。

今でも、それが始まりかけてます。

そして寂しい、寂しいと泣きますね。

寂しいとは、多分あの世に行くのが寂しいんでしょうね。

それを聞いてると涙が出ます。

僕の父が動かなくなったら、僕はどうしたら良いのだろうと思ってます。

そういう時に、父の見舞いに行こうと家を出ようとしました。

そしたら、玄関の棚の上に革靴が置いてました。

車の中で考えたら、父のですね。

良い革靴ですが、だいぶ古くなってます。

脳内出血をやってからは、安いスニーカーを履いてましたから革靴を履いてたの何時だろうと思うのと、有ることを思い出しました。

それは、父が六十代で倒れる前に再起を賭けてた時ですね。

再起を賭けるのに、一キロ程のトンネルを他の会社でやりながら、実は内情は父が主導するって形でした。

ある会社が元請けとして取って、下請けを違う名前の会社がやるけど、実際は父が下請けをやるって事です。

おじさんが所長をやって僕には、とにかく良い坑夫を確保しろでした。

僕は、あちこちの良いと思う坑夫に連絡を入れてました。

僕自身の立場はおじさんが決めたら良いと思ってましたし、実際おじさんからもしも始まればお前は何でもやれるから、自分自身が上に立ちたいとか思うなよと言われました。

つまり、掘削班の班長は諦めろって事です。

当時、既に掘削班の班長として頭角を表し初めてたし、ある意味天狗になり掛けてた僕に、おじさんは釘を刺したかったんでしょうね。

しかし、天狗になり掛けてたけど、父の現場なら別ですから何でもやろうと思ってましたね。

父と一度だけ、そこの仕事を実際に取る会社の社長と会いに行きました。

僕は、そこの社長と会社が潰れた時にうちを一時的に引き継いでくれた時に直接会ってるし、その前にも会ってます。

工事が続いてる時に潰れたから、一時的引き継いでくれたんですよ。

二代目社長で成金趣味で、若い頃はフィリピンパブで良く会いました。

フィリピンパブの女の子から、お金は使うけどお触りが酷いと言われてましたよ。

好きなタイプでは無かったです。

いかにもアホな二代目って感じで、格好ばかり気にしてる田舎者ってイメージでしたね。

しかし、父がここに賭けてるなら仕方ないですから、会いに行きましたね。

僕は、綺麗な作業服にシャツとネクタイでした。

父は、スーツにネクタイでしたね。

僕はスニーカーでしたが、父は今回見かけた革靴でした。

色々打ち合わせして向こうの社長は、息子が前に出てくるのは若すぎるのではと社長が言いました。

向こうの社長も四十代後半でしたから、僕に言わせたらお前も若すぎるよです。

父はそれに対しては、作業の面では三十代半ばだけど、あちこちに行って鍛えられてるから大丈夫だと言いました。

それは、きっぱりと自信を持って言いましたね。

当時の僕は、生意気ですから当たり前だと思ってたけど、今思えば有り難い言葉です。

帰りになって向こうの社長が父に対して、⚪⚪さんスーツは多少古くなってても靴は新しいのにしましょうと言いました。

父は、そう言われて少し恥ずかしそうに、そうですねと答えてました。

かなり恥をかかされた感じで、慌ててたの思い出します。

向こうの社長は、スーツも新しいしギラギラしたような高い時計を、見せつけるように付けてましたからね。

僕から見たら、ダサい成金野郎ですがね。

父は、会社を出ると歩きながら靴で仕事をするんじゃないぞと頭に来たように言ってました。

若いのが馬鹿にしやがって、とも言ってましたね。

確かに、父の方が経験も豊富ですし年齢も上なのに、元請けをやるってのと立場が向こうが上ですから仕方ないけどです。

僕も、不快な気持ちしか無かったです。

それでも、父は僕に靴をやっぱり変えるべきかと聞いて来たのに驚きました。

そういう事を突っぱねる人だったのに、やはり気になったんでしょう。

それと、一度落ちたらそういう風になるのかなと、少し悲しかったですね。

それと、いかにこの仕事に賭けてるのかが分かりましたね。

それでも、僕はお父さん靴でトンネル掘るのかと答えて、今での充分だと言いました。

それに、あそこの社長の格好は田舎の成金で、カッコ悪いよとも付け加えました。

そう言うと、そうだなと父は答えましたね。

その後僕は、その話しがなかなか進まないので、違う現場に作業員として行ってました。

最終的に、そこの仕事を取れなかったんですよ。

それで、しばらくしたら、あの成金社長が夜逃げしたとの話しが入って来ましたね。

今ではどうしてるのか知りませんが、会社をきちんと倒産させられなくて逃げたようです。

いかにもアホな二代目だなと思ったけど、父の再起はこれで大きく崩れましたね。

結果論ですが、もしも成金社長が仕事を取れてて、父やおじさんや僕が入っても上手く行かなかったのではと今では思います。

成金社長では、現場をきちんとやるって厳しかっただろうし、倒産のやり方を見ても何か起これば逃げるってタイプでしたから、上手く行かなかったと思います。

僕は、今住んでる所の玄関に置かれてる靴をじっくり見ました。

すっかり古くなってる黒の革靴ですが、良いものです。

父の足の形に曲がってるけどね。

履こうとして諦めました。

父は26のサイズで、僕は26・5なので入りません。

父は、身長が一メートル六十五センチ無い位でした。

僕が、足が大きいから背も伸びるだろうと思ってたようですが、残念ながらそれほど、伸びずに一メートル七十センチ弱です。

それでも、父の会社がある時に現場で汗だくになって着替えてたら父が来てて、僕の筋肉質の身体を皆に自慢げにいってましたよ。

それに、作業員にこいつに腕相撲で勝てたら一万円出す、と言ったことも有りますね。

僕が腕相撲強いの知ってたからです。

何人か相手をしたのを覚えてますが、父の前で一度も負けませんでした。

だけど、筋肉質な体型等は父方の遺伝子なんですよ。

父も三十代の頃の写真など見ると相当筋肉質ですし、周りにパワーのある人が非常に多かったですね。

革靴をもう履くことはないでしょう。

しかし、父は一生懸命生きたし失敗はしただろうけど、人に色々言われる事ではないと今では思います。

黒の革靴を見ながら、父が少しでも苦しまずに少しでも長生きして欲しいと願います。

それしか願えない情けない息子ですが、父はある時期、完全に再起をするなら最終的に僕を中心にと思ってたと分かります。

最近おじさんと話してて、親父は倒産した後は、お前に賭けてたと思うよと言われてそうだなと頷きました。

それが、分かってたから鬱陶しかったのかも知れないです。

それを表に父は出さなかったけど、同じ仕事してた僕に再起するなら期待してたと思います。

分かってたけど、僕はとにかく前の仕事をこなすのと、倒産で出来た借金を返すのに必死でしたからね。

未だに仕事は上手く行ってても、経済的には支える人が多くて大変です。

上手く言えないけど、やはり父に少しでも生きてて欲しいです。

親の死ぬのなんて見たくないし、晩年が余りに可哀想でしたからね。

黒の革靴を見ながら、色々気付かないようにし過ぎたと言う後悔と、生きてて欲しいと思う願いが交差します。

実の父親ですし、こんな事は誰でも一度しか有りませんが

自分自身がこれほど、父の影響受けてたのかと最近つくづく思います。

治らないのは分かってるけど、少しでも生きてて欲しいし、自分自身がもしもが起こったら、精神的に耐えられるか心配です。

情けないけど、僕は強くないですからね。

父の会社が潰れたのは、短いトンネル工事を失敗したからです。

何本ものトンネル工事に携わりながら、油断があったと思います。

たった一本のトンネルで会社は駄目になるってのは、僕には教訓ですね。

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