高山が作家として更に飛躍することを願い創作活動を支援したい!~エッセイ「ガーターベルトの女」の作品化を目指して【279】

妄想家・夢想家無名居士の夢物語の記録です
無名作家高山のエッセイ「ガーターベルトの女」の
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無名魂~高山のブログ
【随筆】3・11に捧げる緑の雨

高山の作品から
随筆「時は経ちある同級生

2017/06/06

友人と言うか、正確には同級生の事を書きたいと思います。

高校生の頃の同級生ですね。

高校生の頃本当に仲良くしてたのは数人ですよ。

彼もその中に入るかと言うと微妙ですが、まあ一応当時は友人でしたね。


僕は、ヤンキーの巣のような高校に行ってるから馴染むまでは大変でした。

その上、途中転入ですから一年の半ば位まで浮いてました。


そういう時に椎名誠のエッセイ読んで、キャンプに行きたくなりました。


しかし、一人ではなかなか行けないしで当時周りに居た、いわばオタク連中に声を掛けました。


今でこそオタクは市民権得てるけど、僕の頃はオタク=クラスでは下層階級でしたよ。


転入してるし、周りに最初はそういうのしか居なかったんですよね。

何人かがOKと言うから僕は準備を始めました。


テントの安いのを探して買ったり、荷物を用意したりです。

もう新聞配達してたから、そこから出しましたね。


それとパチンコしてましたから、勝ったらしばらくそれにつぎ込みました。


当時はスリー7台が出始めてまだ、スロットはごく一部でした。

勝つ時は数万円単位でしたが、そんなに大きく博打性があったとは思いませんね。


ほぼ同じ店に行ってたから羽台も有るし、研究すれば大きな負けは少なかったです。


特に羽台はまだ、釘を読んで打てば良かった時代です。


それでも負ける時は負けたけどね。

僕のパチンコ屋通いは同級生の中では有名になって、学校に行くと昨日は幾ら勝ったかとか声を掛けられました。

二とか三とか昨日は負けたとかを、ジェスチャーでやってましたね。

高校三年で先生に見つかるまでやりましたね。

僕は高校三年間で、年に四十日から五十日サボってました。


いじめが有るとかで無くて、面倒だったんですよ。


それでも卒業出来たのは、成績が良かったのと剣道してたからでしょうね。


クラスでは女の子の方が僕より休んでて、男子では僕が一番休んでましたね。


パチンコは、学校行っても終わったら直ぐに駆け込んだりしてました。


とにかく、シラケてましたから学校に行って何が有るのかでした。


まあ、それでキャンプの道具をある程度揃えてオタクの連中に行こうと言うと、いざとなったらグダグダ言って行かないんですよね。


なんだ!そりゃでしたよ。


その時に何度か話ししてたこの柿田と言うのが、それなら俺が行こうかと言ってきました。


何度か話しはしてたけど家にも行ってないって当時は関係でしたが、とにかく誰か一人で良いから一緒に行ってくれたら良かったんですよ。

やったって感じで、行こうになりました。


それから二人で更に道具を揃えたりします。


柿田は裕福な家でしたね。


家に行くと当時は珍しい豪華なステレオセットがあったり、家は新築のようですし、え!?この街の連中こんなのかよと思ったら柿田は特別でした。

柿田の家は母親が着物を売ってて有名でした。


着物屋の息子として有名でしたね。

後から知るけどこの母親が布団売りから成り上がった人で、強引な商売でも有名でした。


とにかく、柿田は当時流行ってたマウンテンバイクに乗ってて、キャンプの道具も良いのを買い始めました。


こっちは最初はママチャリでしたから、自転車に色々乗せて行くのはそりゃ大変でしたよ。


柿田の紹介で分割で払って、良い自転車屋を教えて貰ってスポーツタイプに変えますけどね。


それから二人でキャンプに行き始めました。

一年の時は二人ででしたが、二年三年になると色々な人とキャンプに行きましたね。


僕の交遊関係が変わってきたからです。


今で言うヤンキーグループとの付き合いが出て来たから色々な人と行ったけど、なるべく二人とかで行きました。


三人とか四人になると、まとまりに欠けますかからね。


卒業してからはバイクで四国に渡ったり、あちこち行きましたよ。

柿田は、僕が他の友達と行くのを嫌がりましたね。

嫉妬のような感情を出して来ました。


しかし、柿田はキャンプよりも自転車やバイクで走るのが好きなんですが、僕はキャンプが好きなんですよ。

その辺りの価値観のずれは仕方なかったんですがね。

今のトンネル工事の仕事を初めて父の会社に入ると、あちこち行って戻ると柿田が必ず会いに来ましたね。


柿田は地元に残って親の跡を継いでました。


柿田の母親は僕の事を好きでは無かったのに、僕が父の会社に入ったとなると手のひら返したような感じになりましたよ。


母に着物を売りに来て母は他で着物を作ってたけど、足袋位ならと言ったらしいです。


そしたらかなり強引に着物を作らされたようです。


当時は母も余裕があったし、僕の友達の母親って事で仕方なく作ったらしいです。


かなり後からそれを知って驚きましたね。


まあ、それでも柿田は地元に残ってる友達って居なくて、僕が帰ると直ぐに来ましたよ。


柿田は変わり者と言うか、自分自身は周りと違うんだ的な少し偉そうな所があって、他の連中は段々と相手にしなくなってました。


柿田自身も、相手にして貰わなくてけっこうみたいな態度を取っていたので孤立してましたね。 


僕が本当に仲良くしてた友達いわく、柿田は損得で友達付き合いするから余り相手をしても仕方ないぞ、でした。


まあ、それでも柿田が結婚して、結婚式にも呼ばれて行きました。


奥さんとも仲良くなりましたし、遠くから戻ればその土地の名産品等を買って行きましたよ。


なんだかんだ言って僕もまあ、良いかで付き合ってました。

全てが悪い思い出では無くて、お互い楽しかった時期も当然有りますし世話になったことも有りますよ。


奥さんから女の子紹介して貰ったりもしたし感謝はしてるんですが、着物屋の息子としてのお金の使い方の激しさに驚いて行きます。


一年に一回は車を代えてるのでは無いかと思うくらい高級車をどんどん代えてましたし、酒は飲まないけど服とかもいつも良いのを着てました。

後で奥さんに聞いたら、相当な金額を持って帰るからか驚いたらしいです。

しかし、柿田が稼いでると言うよりやり手のお母さんが稼いでて、その手伝いをしてるだけでしたけどね。

一度金を使いすぎでは、言うとお前だってジーパンにお金かけるだろうと本を沢山買うじゃないかと言われましたが、全く次元が違うだろうでした。


彼もジーパン好きで良いのがあったら買っておいて、僕の現場までタダで送ってきたりしましたけどね。

しかし、そういう時期が長くは続きませんでしたね。


僕は父の会社が危なくなって、柿田にも何か手はないかと相談しますが、本当に他人事のようでしたね。

今でも覚えてますが、何かをしてやろうとか全く無かったですよ。


一番仲良かったのは、助けてくれて直ぐに他の事情で刑務所に行きましたからね。

しかし、色々な意外な人間が助けてくれましたよ。


年齢や性別関係なく、え!?って人が意外に助けてくれました。

僕は数年間地元に戻らなかったのですが、仕事で三十代半ばで同じ県に戻ったのを期に用事があって地元まで車で行きます。


柿田に何気なく電話すると、それなら寄れよでした。

柿田の家が、僕の会社の倒産の数年後にやはり倒産したのは知ってたから、どうしてるだろうで寄りました。


柿田も自己破産にまで追いこまれたようですが、僕の家ほど酷い状況では無くて奥さんがテキパキ処理したようです。


普通のマンションに子供が出来て三人で暮らしてましたが、生活に困ってるって感じでは無かったです。

小さい男の子と遊びましたね。

しかし、既に柿田は地元の建設会社の作業員として働いてました。

僕は、今なら大きな現場が出たらトンネルやらないかと誘いました。


地元の建設会社の作業員とし何時までやれるのかと、トンネルを覚えるのにギリギリの年齢でしたしそれなら実入りの良い世界に来ないかでしたが、柿田は断って来ました。

子供が居るからが理由です。


何度かそれでも家に行ってるうちに、ほんのつまらない事から言い合いになりました。


過去にも何度もそうして言い合いになって一時的に断絶状態になりましたが、その度に周りが骨を折ってくれて僕と柿田を元に戻してました。


しかし、もう皆忙しかったり色々抱えてたりで、周りも骨を折るのが面倒になってたようですね。


刑務所から一時的に出ていた友達は、これを機会に柿田と縁を切るのが良くないか、でした。

柿田は、お前に肩書きが無くなったらお前を必要としないよ、と言われましたね。

社長の息子だから、ってあったと思うよですね。


柿田には柿田の母親と似たようなそういう所が確かに有りましたから、僕も地元に特にこだわりないし良いかですよ。

友達でも良い衝突と悪い衝突と言うか、似た者同士だからどうしても衝突が起こるのと、最初から実は合っていないから衝突が起こるのと有るのかも知れない、と思うようになりました。


それに三十代半ばで、まだまだこれから立ち直って行かないと行けない時期でしたし、トンネル屋としてまだ、これからでしたからね。


この世界でどうやって生き残るかを考えてましたからね。


お金を稼ぐには、僕には不器用ながらもこの世界しかないと思ってましたし、修行も足りませんでしたから。

まさか今、家族を養うようになるとは思いませんでしたが、母親がお前が安定しなかったらうちはバラバラになっただろうし、大変な事になっただろうと言いますね。


妹も普段は口が悪いけど、兄ちゃんが今の会社に入って無かったらどうしようも無かっただろうと言いますね。


個人的には家族の呪縛から逃げたいですが、仕方ないです。


四十代になって今の会社に入りますが、最初はまあ、大変でした。


作業員は出来ても、人の管理はなかなか大変だし営業なんてとても大変でしたが、何とかこなせるようになりましたね。


三年は慣れるまでかかりましたよ。


そうしてて地元で建設現場で働いてるのが他にも居たから、そういう同級生から仕事ないかと相談もあるようになりました。


本格的なトンネルは無理なので、雑工するかとか本格的ではないトンネルに呼んだりしました。


その同級生は野球部でしたし、体力的には問題も無くて真面目にやりましたよ。


一時的に助けるのは出来てもずっとやるかと言うと、なかなか皆年齢的に難しいですね。


昔からのトンネル屋なら別ですし余程根性据えて来るなら別ですが、なかなかそれは難しいですよ。


そうしてたらつい最近柿田から電話があって、仕事ないか?です。

僕の今の立場を周りに聞いたんでしょうね。


うーんですよ。お前、俺と縁を切っておいてとかそういうのでは無くて、年齢的にいくら建設現場に居たからと言っても難しいなあです。


それでも雑工なら良いかもと思いました。

雑工で大きなトンネルなら一日一万八千円です。


それを様子を見るために、一万六千円で入るかと言いました。


柿田はそれで良いと言うので、どこそこまで来たら俺が連れて行くから、で待ち合わせました。


僕は、その日は打ち合わせが合ったので私服でした。


待ってると来たから、車に乗せて現場に連れていきました。


所長には、俺の同級生なんだけど使えるか見てて、使えないなら駄目だと言ってと伝えてました。


所長は、高山さんの同級生は使いにくいなでしたが、それは忘れてくれて冷静に判断してくれ、と伝えました。


もしもダメなら十日程で首を切るから、と本人には言ってました。


十日の日当は出すけどね、です。


ボランティアで仕事はしてないし、トンネルにしても建設業はチームワークですから、本当にダメなのまでを使ってて事故でもしたら終わりですからね。


車で現場に連れて行き所長に会わせて、後は所長に聞けよと言って僕は打ち合わせの為に戻ろうとしました。

柿田は慌てて僕の所に来ると、お前そんなに直ぐ戻るのかです。


僕は思わず苦笑いが出ました。


トンネルなんてそんなもんだよ、と言って車を出しました。

それでもやはり気になってて、二日か三日後に現場に行ってどんな感じかを所長に聞きました。


所長は、うーんですよ。


全くの素人なんですね、です。


建設業は知っててもトンネルは全くの素人なんだ、です。


機械に乗せても上手いけどあれではトンネルでは無理だし、次に何をやるかとかを分かってないから本人戸惑ってばかりだそうです。


機械に乗せても上手いけどってのは、外の仕事の建設業が入って来てもトンネルはトンネルのやり方が有るんですよ。


丁寧さよりもスピードです。


トンネル屋が外の仕事で通用しても、外の仕事を長くやってる人間がトンネルで通用しないって多いです。

それと体力的にも、ちょっと見てたらしんどそうだ、です。


そりゃそうでしょうね。


年齢が同じでも、トンネル屋なら抜く所は抜くで体力の分配を上手く出来るけど、トンネルが初めてなら難しいです。


それに四十代後半なら尚更です。

僕は柿田の側に行くと、休憩するかで缶コーヒー飲みながら、一服して話しました。

柿田は汗をかいて汚れてたから、お前一人で仕事してるみたいだなと冗談を言いました。

柿田はそれを冗談と取らなかったようで、ムッとしてました。

柿田から見たら、僕はいつの間にか偉くなって大変さが分からないんだでしょうが、僕に言わせたら作業員は体力的に多少しんどくても楽です。


言われた事をすれば良いのだからです。


黒板があったから、どういう段取りで動くかを説明しました。

普通は新人にそこまで言いませんが、僕なりの親切で説明しました。

もうしばらく様子を見てダメなら、もっと小さい現場に行くかとも言いました。


正直そこまでやってやる義理はないんですが、仕方ないなあですよ。


そしたら柿田は、お前も偉そうに言うようになったなと返して来たから、悪いけどこの世界ではお前の十倍は偉いんだよと言い返しました。


しかし、あーこいつは立場を分かってないな、です。

そのあと僕が現場を回ってたら、ダンプが二台調子が悪いんですよと機械屋に言われました。


今は中にましな方を入れてるけど、もう一台が直ったから中に行くなら乗って行って代えて来てくれないか、と言われたのでOKと言って乗りました。


トンネルの機械は古いし扱いが雑なので、しょっちゅうこういう事があります。

良い機械屋を雇うと、少し位日当が高くても損は無いんですよ。

僕はダンプに乗ると、中に入ろうとしました。


そしたら入り口の危ない場所に柿田が居たからクラクション鳴らそうとしたら、クラクション壊れてて鳴らないので窓開けて怒鳴りました。


そこに居たら引くぞ!っと言いました。


これは柿田だから言ったのでは無くて、誰にでも言いますよ。


柿田の顔色が変わるのが分かったけど、知るかです。


そうして柿田の様子を見てた所長から、一昨日電話がありました。


十五日様子を見たけど、本人が悪いんじゃなくて無理ですねと言われました。


僕はそうかです。本人に言って他の現場を試すか聞いてみて、と頼みました。


しばらくしたら柿田本人から電話が有りました。


何と言うかと思ったら他の現場はいいよと、お前からこんな目に遇わされると思わなかったです。


僕は笑いましたよ。

もうすぐ五十になろうと言う人間が、人の思いも分からないのかと笑いましたね。


僕は一切意地悪はしませんでしたし、他の作業員より贔屓しましたよ。


所長も十日って所を十五日様子を見たのは、僕の同級生だからですよ。


それと所長は、一万六千円の所を一万八千円でわざと計算して来ました。

少しでもお金を取らせてやろうです。


僕も当たり前ですが気付きましたが、それで良いかです。


流石に柿田の言いぐさには、周りがどれだけフォローしたかを言うために日当と様子を見る期間を伸ばしたんだよと言いましたが、そんなの頼んでねえよでした。


僕は笑いながら、二度と電話してくるなと言いましたね。

苦さは残りませんでしたが、高校を出て皆違う道を行ってるんだと実感が残りました。


それとやはり謙虚さでしょうね。


それがないとダメだなです。


なんとも言えない気分が残りましたね。


気分の良いものでは無いけど、一種の諦めのような物ですね。


柿田に理解して貰いたいとかは全くないですね。

知らぬ間に月日が経ったと言う事と、変わらない奴は変わらないなあと思いましたね。


高校時代は遠くになったのだな、と言う寂しさは有りますけどね。

おわり

高山の作品紹介
次回は随筆「『おかしな男 渥美清』小林信彦(著) 雑感」

「ガーターベルトの女」~映画化のために​

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「ガーターベルトの女 外伝」(フィクション編) 1
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