高山が作家として更に飛躍することを願い創作活動を支援したい!~エッセイ「ガーターベルトの女」の作品化を目指して【254】

妄想家・夢想家無名居士の夢物語の記録です
無名作家高山のエッセイ「ガーターベルトの女」の
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無名魂~高山のブログ
【随筆】映画『秋刀魚の味』雑感

高山の作品から
随筆「父の近況と思い出

2017/03/21 

まだ三月の終わりとはいえ、暖かかったり急に冷え込んだりこちらもしています。


父の状態は、悪くなったり良かったりです。

もうオムツをしてるような状態です。

母が主に介護しながら、僕は仕事の合間に出来る事をしてます。

オムツのお陰で隣の部屋で倒れたりは無いけど、夜中に急に起きてゆっくり歩いて大便が出た時は、母を無理矢理起こしてます。

仕方ない事ですが、母も僕も疲れも出ます。

アルコール中毒、鬱の兄は全く関わろうとしませんね。

父は、最近は寝てばかりで世の中の事に関心が薄れてるようです。

こないだ急に、紳助はどうしたと聞かれてえ!?でした。


あのお笑いの島田紳助の事ですが、親戚にもしんすけって名前の男が居て、そちらかと思いました。

急に何かを思い出すと思ったら、すっかり忘れてたり大変です。

去年の暮れから悪くなって、急激に落ちましたね。

脳内出血を十年程前にやってますが、その時の回復は凄かったです。


半身は上手く動かせ無くても、元々体力があったんでしょうね。


六十代半ばで脳内出血ですからこのまま駄目かなと思ってたら、甥っ子と軽く野球も出来てました。

リハビリをたまたま良く病院でその頃見られたんだけど、リハビリを担当する人も驚いてましたよ。


それが、去年の暮れから一気に悪くなって寝たきりですね。

ラジオが好きで夜中もずっとラジオを着けてたのに、今は食べたら寝るって感じです。


あとはオムツの世話ですね。

食べる量も減ってますが、本能のままにと言うか自分自身が好みの物ばかり食べます。


春になれば少しは落ちてるのを止められるかなですが、どうなるかは分かりません。


今は七十代の半ばですからね。


なるべく父との良い思い出を残しておきたいです。


父は、僕と兄を母方の祖母に預けるまでは非常に可愛がってくれました。


トンネル工事の宿舎で僕らは途中まで過ごしましたが、カブトムシが欲しいと言えば現場に高い鉄柱が有るんですが、それに登って取ってくれたりしました。


母に聞くと周りは、あんなに子供を可愛がってと言われてたようです。

だけど、仕事の途中が多くていつもねずみ色の作業着を着てましまね。


それをある時、他のお父さんと違うと僕が言ったんですが、苦笑いしてました。


会社を作って順調になったのが、四十代半ばですかね。


五十代の半ばに倒産したけど、会社の十五周年記念を華やかにやったのを覚えてます。

潰れてから他の会社の役員で入りました。


その頃広島に居て、父と二人って多かったです。

母は、トンネルの同じ会社のトンネル現場の炊事をしてて、一時期は毎日僕が千円貰って父と二人の食事を作ってましたが、僕は三十代で料理も上手くなくなかなか大変だったけど、もう一度再建するんだと言うのがあって楽観的でしたよ。


父も僕もギャンブルが好きで、広島にいる頃に久しぶりにパチンコにはまりました。


今は、僕はギャンブルにハマる自分自身を知ってるから全くしませんけどね。


ある時休みで、タクシーで二人でパチンコに行きました。


いくら使ったかは覚えてないけど、けっこう使って二人とも熱くなるので最後の最後まで使いきりました。


いざ帰ろうとなると、僕は当然父はタクシー代は残してるだろうと思ってました。


そしたら、父も僕がタクシー代を残してると思ったようです。

二人で無いのか、ですよ。


歩くと一時間近くかかるんですよね。


何故車で来なかったのかと怒りましたが、二人で諦めて秋だったと思うけど歩いて帰りました。

父も僕も外では話すけど、家族の前では余り話しません。

線路伝いの道を黙々と歩いてると、父が煙草持ってるかと聞いて来ました。


持ってたから渡しました。

そこから会社の再建の話しになって、とにかくお前は良い作業員を集めてくれでした。


父とおじさんと僕とで、再建の話しをしてましたね。


僕も再建出来ると思ってたし聞いてました。


珍しく二人でそういう話しをしました。


まだ父も五十代でしたからやれると思ってました。

秋の日に、父と歩きながらそういう話しが出来たのは、今では良い思い出の一つです。


実際に九州に僕が戻ったのは、再建の話しがあったからです。


ギリギリになって、間に入ってた会社が仕事が取れずに無理になりました。


僕は失業保険を一時的に取って、他の会社からの誘いでおじさんが所長するからと言うので沖縄に行きます。


再建出来なかったのを特に恨んではなかったけど、父も気が短く僕も気が短いので良く言い合いをしてましたよ。


駐車場で言い合いしてたら、近所の人に止められた事も有りました。


その後も僕は、今の会社に作業員で行きました。


他の会社からの誘いで東京にも行きましたが、その会社の流れでそのまま小倉に仕事に行ったんです。


元々この会社は、父の会社に居た僕より少し年上の人に誘われたんです。


東京は良かったけど、小倉での所長は父の会社に居た人だけど、僕と仲が悪くていじめにあいましたね。


東京で日給二万円以上貰ってたのが、給料日になって見ると小倉では一万六千円です。

それでも仕方ないかとやってました。

掘る方では無くて雑工です。


知ってる作業員も数人居て、何故雑工で使うのかと所長に言ってくれた人も居ました。


掘る方でそこそこの実績を積んでるのを知ってましたらね。


所長は、毎日車を洗っておけとかカラーコーンを洗っておけとか言いましたね。

二本トンネルやってて雑工が三人居たけど、僕はいつも一人で水菅を繋いだりエア菅を繋いだりしてました


時間がないとどうしても一人で繋ぐの遅れるんですが、掘る方の作業員が憐れに思ったのでしょう、かなり手伝ってくれましたね。

その他にも僕には機械に乗るなとか、様々な形で所長が嫌がらせしましたよ。

雑工や電気を扱う人たちとは仲良かったです。


ゆっくりやれとか言われました。


機械屋の人も噂は知ってて、手伝ってくれとか多かったです。


しかし、ある時に部屋に居ると所長が呼んでると言われました。


行くとお酒を飲んでて、周りにも作業員が居ました。


この所長は、僕より少し年上なのに若い頃から酒乱でした。


父の会社に居た頃は、飲みにたまに出たら大抵喧嘩になりました。

滅多に一緒には行かなくなってましたね。


その人が飲んでて呼び出しですから、嫌な予感がしましたよ。

僕が行くとそこに座れです。


そこから仕事ぶりに関しての説教です。

まあ我慢して聞いてましたが、今度は周りに掘る方の班長もしたし、所長の経験もあるとか自慢してるらしいな、です。


そこで、自慢はしてないですよと反論しました。


そうすると僕が安定剤を使ってる事を言い出しました。


これには参りました。


周りに人が居るし、安定剤を使ってる作業員とかけっこう居るんですが、見てみぬふりをするのが当たり前なんですよね。

その後に、失業保険が取れるまでは使ってやるです。


流石に腹が立ったけど、我慢してありがとうございます、でした。


次の日にそこに居た作業員と車で現場に行ってたら、作業員も驚いてたらしくて何であんなに言われるの?でした。

その人達は、僕が呼ばれたのはお酒を皆で飲むんだと思ってたらしいです。

びっくりしたし頑張ってよでしたね。


僕も苦笑いしながら、色々因縁が有るんですよと答えました。


所長の扱いはその後も変わらず、朝に挨拶しても僕だけ無視するとでした。


まあ、だけどとにかくこういう人だから失業保険が取れるまでは居ようでした。


しかし、ある時に機械屋に頼まれてホースを作ってたら、それはお前の仕事かと言われました。

車をもっと綺麗にしろと追い打ちかけて来ました。

その時に作業する鉄の台が有るんですが、一瞬持ち上げて所長が後ろを向いて座ってたから、殴って殺そうと思いました。


ハッとしてやめましたけどね。

そういう風に人を恨んで、一瞬本気で殺そうと思ったのはその時が初めてです。

自分自身の中にそういうのが有るのに、驚きさえ有りましたね。

その日に宿舎に戻って荷物をまとめて、良くしてくれた何人かの所に行って辞めますと言いました。


事務をしてた若い男には、辞めるから途中までの給料はここに振り込んで、だけ言いましたね。

所長には顔も合わさず辞めました。

このまま居たら、いつか自分自身がコントロール出来なくなると思ったんですよ。

失業保険なんかいらないや、です。


それで父に電話して、辞めて帰るから駅まで迎えに来てよと言いました。

父は分かったとだけ答えましたね。


迎えに来ても、僕が途中で辞めるって事は余程の事があったのだろうで、父は何も聞かなかったです。


聞かれなくてほっとしました。


後から掘る方の作業員が辞めたのは、酷い扱いするかだと何人か言ってくれたようです。

それも嬉しかったけど、父が何も聞かなくて僕を迎えに来てくれたのは嬉しかったですね。


後日談として今営業してて、たまにその所長と会いますがお互い無視です。


一度だけ、調子に乗るなよと言われたから、カチンと来て胸ぐら掴んで、今は会社も違うしお前に恩とかないんだと言いました。


まさか胸ぐら捕まれて押し付けられるとは思ってなかったのでしょう。


それきり直接は言わないけど、悪い噂は流してるようです。


まあ、その所長が僕を苛めたのは、父が実は間接的にその人から借金してたってのもあるようです。


倒産して数年で僕が払いましたけどね。


父は、会社倒産時に後から知るけどあちこちから借金してます。


今でも僕が返してるのがあるくらいです。


だけど、駅に迎えに来て何も聞かずにいてくれたのに感謝してますよ。


今思い出しましたが当時僕は坊主頭にしてて、それが少し伸びてて坊主頭も嫌だし少し伸びたから何とかしようと、駅の側の美容室に寄ってよと頼んだら。そこで降ろしてくれましたね。

何も聞かずにですね。


今でもその安い美容室にしか行きませんから、もう十年以上も前ですね。


父に対しては色々思うけど、やはり病気になってる父を見てたらなるべく良いことを思い出そうとしてます。


若い頃は必死に働いてバブルの勢いも合ったかも知れないけど、三十代後半で独立して倒産のやり方は悲惨でしたが、必死に生きた人です。

色々な物を犠牲にしながらも上に立ちたかったんでしょうね。


物欲やなんかは少ない人でしたが、名誉欲は強かった人です。

服とか車は周りに言われて良いのを買ってたけど、本人はそれに執着はなかったです。

しかし、何時からか狭い町で取り巻きが出来て何かが狂って来ましたね。


人にお世辞を言われたり持ち上げられたりが、少なかったから本人も少しずつ変わりましたね。

取り巻きもある種そういう点では、純粋な父を上手く利用しましたね。


だけど、会社を必死に働いて立ち上げ立って事は尊敬してますよ。

自分自身には出来なかっただろうなと思いますよ。

それと、晩年は妹が子供作って、その子がとても父になついたのは良かったですよ。

公園で僕にとっての甥っ子は、父と僕と遊ぶと父がどうしても半身が悪いから杖をつきながらゆっくり帰るのですが、それが可哀想だから見に行くと聞かなかったです。


父も孫は特に堪らなく好きなんでしょう。今でも孫の事だけは話しますよ。

僕も兄も結婚してないから妹に感謝してます。


今自分自身が出来るのは、時間がある時の介護です。


後から後悔しないようにと思ってますよ。

時々苛立ちも出ますが、親なんだと言い聞かせてますね。

おわり

高山の作品紹介
次回は
随筆「北野武 雑感」

「ガーターベルトの女」~映画化のために​

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