見出し画像

多摩丘陵のサイクル

はじめに

尾のふもと八王子市から町田市、多摩市を経て稲城市にまたがる広大な丘陵地帯には、多摩ニュータウンが広がっている。中央線を日野駅~豊田駅~八王子駅へと下っていくと、進行方向左側には浅川を超えて平山城址・南平の住宅街が山の斜面にはりついている。私自身、多摩西部のいわゆる農村で育ってきたので、どうしても、住宅街のみが立ち並ぶ光景には圧倒されてしまう。

、日本で取り入れられている町構想は、イギリスのレッチワースの街を構想した、ハワードの思想に強く影響されている。東京が日本の中心になり、都心にはたくさんの企業が進出したことで、第三次産業が飛躍的に増加した。それに従い、地方から第一次産業関連に従事していた労働力は次第に東京へと集中していった。ただ第三次産業が発展しただけではなく、農村の衰退など複合的な要因が絡まり多くの労働者が都市に出てきた。都心にオフィス、事業所が集中した原因を考えることは本題から外れるので詳述しない。ここで重要なのは、都心にあつまった労働力をどこで管理するのか、つまり住宅が大量に必要とされたのである。

ニュータウンとは

たちはニュータウンと言われたとき何を想像するだろうか。中学校の日本地理で登場する、このニュータウンというワード。私自身のイメージは、都心に出てきた人が結婚してから最初に住む家というものだ。なにもなかった山間部に突如として表出する巨大住宅街といったところだろうか。

だが、それは大きな誤解をはらんでいる。まずニュータウンというものが、何もないところに建てられてものではない。高畑勲監督の「平成狸合戦ぽんぽこ」では、狸がいた山間部として描かれているが、実際には、そこにもともと住んでいた人々を表している。実際に、今も狸は多摩丘陵に多く生息しているし、正直なところ緑はまだたくさん残されている。映画のエンディングは狸が化けて、人間に姿態で暮らし始めているが、これもまた、地元住民がニュータウンの人々と暮らし始めた比喩と考えられるのである。

では、多摩丘陵に作られなければいけない理由はなんだったのであろうか。それは、都心を囲む同心円状を思い浮かべて欲しい。都心に通勤・通学するにあたり、都心から30km-50kmの範囲の円状に居住地を作ろうという、国の思惑が存在したからだ。中でも、そこにぴったりと該当しており、かつもともと住宅が少なかった多摩丘陵は恰好の標的とされたのだ。また当時の行政も、住宅誘致に積極的であった。ただ、そこには大きな落とし穴が存在した。住宅開発は1963年に制定された新住宅市街地開発法【新住法】にのっとって進められている。この法律では、もともと住宅開発とその他必要生活に必要な施設を建設するため名目で、土地を半強制的に買収するができた。ここに大きな問題がある。市の人口増加は、市の財政が安定するように見えるが、実際には税収入よりも、インフラ整備の歳出の方がはるかに上回ってしまう。新規学校の開設、公園の整備、上下水道の整備、街路整備等、市が負担するには大きすぎる財源が必要だったのである。もともとは東京の田舎であり、もちろんそんな大きな自治体でもない。そこへ一夜にして、「数千人規模の街が来ます。ハード面を整えてください。」と言われたのだ。相当な苦労が存在したことはたやすく想像できる。

ここでニュータウンの本投稿でのニュータウンの定義を確認しておきたい。しかしながらニュータウンを明確に定義する法律は存在しないし、計画にあたりニュータウンという言葉が使われていたことはない。農村という場所であっても、それは明確な場所があるわけではなく、私たちの日常生活と相対して把握したときに初めて想起される。ニュータウンにおいても相対化して考えると、今までの街とは一線を画した、主に住宅のみがひしめきあっており、同様の特徴を持った世帯が密集していると印象づけられるだろう。複雑にからまりあっているコミュニティーを定義づけるとき、私たちの印象というものが一番しっくりくるものとして受け入れられる。本投稿では住宅供給が目的とされた面的な開発としてニュータウンを捉えることにする。

多摩ニュータウン

摩ニュータウンは21の区域から構成されている。他の千葉や千里であっても、複数の街区から構成されているのが一般的である。しかしながら多摩が一線を画すのは、その規模と開発年数の隔たりである。初めに開発された、諏訪・永山団地への入居が始まってから、50年が経過した。しかしながら、今も、稲城市南山地区では開発の真っただ中だ。多摩ニュータウンは京王線沿線に拡大し続けてきた。京王高尾から高幡不動、京王橋本から京王よみうりランドまでが開発された。もともと多摩ニュータウンはそんな広大な地域を想定していなかった。しかしながら高度経済成終盤に向かって、住宅のニーズは多種多様に求められるようになった。多摩ニュータウンは住宅すごろくの中間からゴールまでを一つの地域で演出している。初期70年代に造成された街は、集合住宅賃貸、その後集合住宅分譲とほぼ同時期に庭付き一戸建ても多く作られるようになった。それがいわゆる、めじろ台や、みなみ野、片倉台、絹ヶ丘、長沼、平山、南平、高幡、梅が丘といった湯殿川、浅川といった、多摩丘陵の北端に位置する、多摩ニュータウンの周縁の庭付き一戸建ての開発も同時進行で発展していった。

多摩ニュータウンのサイクル

では、ここで冒頭タイトル示したことを考えようと思う。多摩ニュータウンの人の転入出を見ているとあることに気づく。それは、多摩ニュータウンの人口流動は多摩ニュータウン内もしくはその周縁地域の間で行われているということである。ここには前項で示したように、住宅すごろくが多きく関連していると考えられる。私たちはライフステージに合わせて、居を構える。そこにこの多摩ニュータウンのダイナミズムを見て取れることができる。上述した通り、多摩ニュータウンはその開発年数と、多種多様な住宅環境を有している。しかしながら、それぞれの街区ごとに一様な住宅形態なのである。いわば、一つ一つの国家が連立していると考えるとわかりやすいだろう。ニュータウンと対をなす言葉としてオールドタウンという言葉が広くメディアで取り上げれきた。建物を指すだけでなく、そこに住む人々の高齢化を表現しているわけではあるが、その地域が高齢化することは本当に問題なのだろうか。多摩ニュータウン全体を見渡してみると決して、高齢者の割合は高くない。しかし、街区ごとに大きく高齢化率は異なっている。それも当たり前だ。均質な住宅環境があれば、そこに住む人たちも均質化していく。地域コミュニティーにはお年寄りから、子供までバランスよく存在するのが、なぜか目指すべきコミュニティーと志向されている。果たして、それがよいコミュニティーを形成するのだろうか。なんでもかんでも、地域の課題は地域で解決するようにという共助を政府は求めている。自助・共助・公助この三本柱を考えたときになんでも共助にするのではなく、公が助ける場面も必要だ。そうすれば、高齢者率の高い街は依然として、その割合は変わらないであろうが、もともと引くい割合の街はいつまでも若い世代が循環していく。多摩ニュータウンにおける住み替えは、まるで一つの国家として機能しているこ考えることができるし、一生を多摩地域でも過ごすことができる。多様性を持った丘陵と読み取ることができる。比較的、長期間にわたって開発されたがゆえに、多様なニーズを満たしてきたニュータウンという特性が、人の生涯とマッチしているという点が特筆される。

もなおその周縁地域の開発は進んでいる。まだ多摩丘陵に備わっていない、ライフステージに合わせた、新しい街づくりは続くだろう。

画像1

多摩丘陵西端の甲州街道バイパス建設

いいなと思ったら応援しよう!