47.「東アジアの思想」という話(31)_17731
47.「東アジアの思想」という話(31)_17731
【清談】
《党錮の禍》
後漢の桓帝・霊帝のときに、党錮の禍(とうこのか)という事件がありました。儒者でもある官僚が、汚職まみれの宦官による専断を咎めたのですが、逆に弾圧されてしまったのです。党錮の禁とも言います。「党」は派閥で「錮」は禁錮で仕官させないことです。
宦官は、後宮に仕えた去勢男子です。もともとは宮刑になった人や、異民族の捕虜などから採用していたようです。それが後には志望者も任用しました。この時代、医療技術もアレなので、けっこう大変だったようです。
そういえば、カストラートという男性去勢歌手がありました。ボーイ・ソプラノのままの声で歌えます。今はもういません。
ともあれ、宦官は皇帝の世話をしているので気に入られることも多く、それで政治を左右することもありました。まま権力をもったとしても子ができないので、皇帝としては安心だった訳です。それが逆に汚職につながってしまいます。
党錮の禍の後、運の悪いことに天災がやってきます。飢饉や水害です。その前に羌人の反乱(一〇七年)があり、後漢の威信は失墜しつつありました。しかし、高節の士の多くは横死しています。
そこに、黄巾の乱(一八四年)や五斗米道(ごとべいどう)といった道教の反乱がありました。これはヤバいと、霊帝は大赦令を出しますが覆水盆に返らず、すでに遅すぎました。
『後漢書』には「秦は奢侈と虐政をもって災を致し、前漢は外戚に亡び、後漢は宦官のために国を傾けた」と書かれています。
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《清談》
後漢の儒学は国学になりました。つまりは学問を国家が統制したのです。経典の解釈に終始するようになり、春秋戦国時代の諸子百家のような自由な思想はできなくなります。
後漢の儒学は形に走りましたが、曹操が「聖人」孔子の子孫を殺すことで、呪縛の鎖を切ってしまいました。
さて、漢代の官吏任用制度によって、豪族社会に「清議」という一種の社交界ができました。その延長で、魏晋では「清談(せいだん)」がなされるようになります。
儒学の礼教に反した知識人が、清談したのが老荘思想です。酒を飲み空理を談ずるなど、儒学では許されないことをしていました。清談の代表が、竹林七賢(ちくりんのしちけん)です。
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《竹林七賢》
西晋代で、世塵を避けて清談した七人(阮籍・嵆康・山濤・向秀・劉伶・阮咸・王戎)の隠士です。
リーダーの阮籍(げんせき)は、好きな客には青眼を、気に入らない客には白眼をみせたそうです。
竹林七賢は世に憂いがありました。やがてそれも形だけの憂いとなります。
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【魏晋の貴族】
九品中正から世襲した貴族が、高級官僚に選ばれるようになります。家柄で官僚の地位が決まるのですから、政治になど興味はなくなります。知識と機知をひけらかしつつも、高級官僚でありながら政に関与しなくなりました。気ままな生活から曲解された老荘思想は、西晋を蝕みます。
華北を異民族に蹂躙された貴族は、華南に逃げます。黄河流域に限定されていた中国の文明が、南の沃野で花開くことになります。皮肉なことに、追われたからこそ経済的に豊かになりました。
東晋の貴族は過去を忘れ、政治に関心をよせなくなります。そして、暗君が擁立され、反乱があり、不幸な歴史が繰り返されることになります。