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「嫌エビデンス」という話
「嫌エビデンス」という話
「エビデンスを突きつけられる事が嫌な人」ですか……。
歴史に名前が残らない小人が、局所的な妨害をすることで、戦争自体か歪むんですよ。#blackjoke
平和を祈りつつ、少し考えてみましょう。#千里同風
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ようこそ。門松一里です。静かに書いています。
という話は、調査資料(エビデンス)を使った「思考の遊び」――エンタテインメント(娯楽)作品です。※虚構も少なからず入っています。
※本当はノワール作家です。
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高橋杉雄「エビデンスを突きつけられる事が嫌な人」(#国際政治ch の #Shorts 動画)
https://youtube.com/shorts/Wy9h7gcHx9U?si=D_z1DRlcO2bzeDA7
本人たちは、校舎の窓を割っている感覚で「やってやったぜ」なんですが、世界を害している感がないんですね。小人は成長しませんね。#blackjoke
もし、エビデンスが誤っているなら、正せばいいだけのことです。たとえば、スタンフォード監獄実験(SPE、1971年)がどんなに疑わしくても「結果」があればそこから議論します。後年SPEがヤラセだと分かりましたが、その時点から議論し直せばいいだけのことです。
SPEが誤りだったからといって、別に思考を1971年にまで戻す必要はありません。その一つについて組み合わせが変わるだけで、それ以後の思考のすべて(変遷を含む)が誤りにはなりません。※誤った慣例として残るということはあります。
無知は罪だが、罰ではない。
有識者のいう「無知は罪」は真実ですが、信用しなくていいです。啓蒙できていない似非(えせ)有識者の努力不足こそ罪ですから。
「知らず瑕疵をおった」――であるなら、そこから学べばいいだけのことです。教育は不条理な瑕疵をおわせずに学ぶことです。
個人の能力がいかに高くなろうとも、生物学上の「賢いヒト」(ホモ・サピエンス)が実質「愚かなヒト」である限り犯罪はなくなりません。ただ、集団としての(チャップリンがいうような)「頭のない怪物」にわずかな知性が芽生えてきたのも事実です。
「人類に集合的意識があるのなら、第一次世界大戦が第一反抗期なのだよ。第二次世界大戦はリトライ。そして学んだのだ。次に事を起こしては滅ぶと。人類は自殺を選ばなかった。それが恐怖からなのか、信頼なのかは別としてね」
チャールズ・チャップリン「人ひとりでは天才なんだよ人間は。けれどいざ集団になると頭のない怪物になってしまう。巨大で野蛮な刺激を求めて彷徨う愚かな怪物にね」
「智(ち)に働けば角(かど)が立つ」とはよく言ったもので、「証拠資料(エビデンス)をつきつけられるのが嫌」というのも分からなくはありません。
ただ、そこから先は感情や感覚が共通項になってしまうので、より原始的な話になります。
たとえば、絵画と文書では絵画のほうが原始的です。音楽の成立にしても文書より前です。原始的なほうがよりストレートです。ダイレクトに効き過ぎるという点もあります。
文書は少なくとも読めないと理解できません。読み聞かせは音楽に近くなります。
文化の成立を文書においている時点で、そうした思考になります。
※原始的なほうが劣っているということではありませんよ。また進歩的なものが洗練されているとは限りませんから。#blackjoke
原始的な感情や感覚は、ある種の暴力です。集団にあって同じ感覚でないと、疎外されてしまいますから。
こうした事象を改善するために文書があり、近年では『万国公法』を用いて「武力による文化的な世界」を形成してきました。
エビデンスなしに話すということは、インプットされたその時点での再生専用の機械になります。
「私の若いころは」とか「常識では」とか言い出します。それ以上、記録することができないので、同じところをずっと巡回しているだけです。
なお、陰謀論に堕ちるのは知識人だけとは限りません。
「頭の良い人」は陰謀論にハマるか、学術誌に論文が掲載…「面白くない」研究結果は心理学者を奮い立たせた
https://www.yomiuri.co.jp/national/20231101-OYT1T50199/
そもそも、知の本質は悪です。「疑う」のがふつうです。
石橋を叩きすぎて壊さないていどには、渡り切りましょう。
ご高覧、感謝です。 サポートによる調査資料(エビデンス)を使った「思考の遊び」――エンタテインメント(娯楽)作品です。 ※虚構も少なからず入っています。