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「投げられた石」という話

「投げられた石」という話

「空中に投げられた石にとっては、落ちるのが悪いことでもなければ、昇るのが善いことでもない」
神谷美恵子訳『マルクス・アウレーリウス 自省録』(岩波書店、初版1956年、改版2007年)9-17, P174

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ようこそ。門松一里です。静かに書いています。

という話は、調査資料(エビデンス)を使った「思考の遊び」――エンタテインメント(娯楽)作品です。※虚構も少なからず入っています。

※本当はノワール作家です。

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マルクス・アウレリウス(121年-180年)は古代ローマ皇帝です。

五賢帝の最後の皇帝で、これよりローマは斜陽――衰退していきます。

キリスト教がローマ帝国の国教になったのは380年ですから、『自省録』はキリスト教の影響が少ないです。

現代の私たちにはキリスト教的思考がありますから、それ以前の思想には要注意することが大切です。

本人はそう言っていないのに「こう思って言ったに違いない」と勘違いする可能性があります。

くわえて日本人は、デカルト的な思考がありながら、歪んだ儒教思想をもっているので、かなり歪(いびつ)な思考があると考えたほうがいいです。

料理でたとえるなら、フランス料理なのに醤油を入れたり、日本料理なのにバターを入れたりしてしまうのです。

別に今、食べる分には問題ありませんが、当時を知るには余計な色眼鏡になってしまいます。

「空中に投げられた石にとっては、落ちるのが悪いことでもなければ、昇るのが善いことでもない」

投げられた石は必ず落ちます。地球上であれば。人が投げるのであれば。

これが第一宇宙速度を越えて投げられると、人工衛星になります。

第一宇宙速度は7.91km/sです。音速が秒速340mですから、かなり速いです。

この速度で「地球に落ちて」います。

ずっと落ち続けているのですが、速度があまりにも速いために落ちないのです。

別な言い方をすれば、私たちは「地球にずっと落ち続けている」のです。

電磁力に比べてかなり弱い重力ですが、それでも私たちは単体で空を飛べません。

キリスト教では石は重要です。イエス・キリストの使徒の一人ペトロを意味するからです。#異説あり

キリスト教を公認したローマ帝国皇帝コンスタンティヌス1世(272年-337年)によって、サン・ピエトロ大聖堂はペトロの墓所の上に建てられました。#異論あり

異説・異論は別として、石打ちという刑罰もありました。

「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」John_8-7

投げた石はたいてい自分に返ってくるものです。#blackjoke

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