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恩徳讃

如来大悲


如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
ほねをくだきても謝すべし

三帖和讃


親鸞聖人が遺された書籍の一つに和讃というものがあります。
これは、現代の言葉で表現すれば、流行歌みたいな感じになると思います。
現在では①浄土②高僧③正像末の三部に整理されており、三帖和讃と呼ばれています。
上に書かれている和讃は、我々の宗門では恩徳讃と呼ばれている、最も有名な和讃です。
この和讃は正像末和讃に書かれている和讃で、報恩講では必ず最後の最後に読む作法になっています。

 

メッセージ


言葉だけで読むと何?と思うような内容ですが、末法という時代だからこそ大切にしてお欲しいという、親鸞聖人からの大切なメッセージが含まれていると思います。
意訳は、それぞれの知識と価値観で行えば良いと思います。
私も、私の知識と価値観で訳させていただきます。

阿弥陀如来


如来とは阿弥陀如来の略称で存在する総て、存在に対しての総てのお働きと考えています。
大悲とは阿弥陀如来からの働きかけに対して、悲しみを感じた時に、気がつく心の動きだと思います。

命の歌


竹内まりあさんの作られた「命の歌」という歌があります。
素晴らしい歌で、また一つ竹内まりあさんを好きになる、そんな歌です。
当然ですが、ユーチューブでも聞くことできます。
この歌の歌詞に
本当にだいじなものは 隠れて見えない
ささやかすぎる日々の中に かけがえない喜びがある
と書かれています。

ささやかすぎる日々


この歌詞は仏説阿弥陀経の「説此難信之法」説明ができないこの素晴らしい世界、に近いと私は考えます。
この歌の歌詞では「ささやかすぎる日々」と表現されています。
私たちはこの「ささやかすぎる日々」を、当たり前とか、当然という感覚で見ています。
仏教ではこの状態を「煩悩の眼」と表現します。

悲しみ


この煩悩の眼が壊れるきっかけになるのが、悲しみです。
急に体調が悪くなり、二度と体が動かなくなったら、お出かけしていて帰ってきたら家が火事になっていたらどう思われますか。
これは極端な例ですが、絶対に起きない事でもありません。
私たちはこれからも、これまで通りに時は流れて往くと思いがちです。
しかし、実際には私たちの身の回りの事も、私自身も総てが儚いもので出来ているのです。
簡単に壊れてしまうものばかりなのです。
そして、昨日と同じ朝は来ませんし、これまでと同じ時間を獲る事はできません。

見返りは無い


宗教として真宗の教えを学ぶ時には、他の宗教と同じように、願いがかなうとか、功徳の分だけ見返りがあるとか期待して、学ぶとおかしなことになります。
阿弥陀如来は存在に対して働くものであり、これからの都合に対して働くものではありません。
希望を持つ事は、人の素晴らしい能力です。
しかし、希望を自分の思い通りにしたい欲望に対して、阿弥陀如来は付き合ってはくれません。
阿弥陀如来からのささやかすぎる日々という贈り物は、がかけがえのない喜びの時間であった事を悲しみという感覚を通してきづかせてくれるのです。

みんなバラバラ


  存在には一人一人状況が伴いますので、元気に走り回る人もいれば、寝たきりの人もいます。
恩徳讃に謡われているように、「身を粉にしても」「骨を砕きても」と自分にとっての不都合がかかれています。
しかしこれは、様々な私と、様々なあなたを表現しているのだと思います。
様々な方と、多様な状態で出会う時間の総てがそれぞれにとっての「かけがえのない喜び」であると教えてくれるのが、お念仏の教えであり恩徳讃の内容だと思います。
 

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