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いつだって、言葉


私は言葉が好きである。
どんな人も、言葉を使わなければ他人との意思疎通をはかることは難しい。

でも言葉を扱うのもまた難しいことだ。
それを紡いでいくことで人を感動させることだってできるし、騙すことだってできてしまう。

たとえ同じ言葉を発したとしても、誰を介して出てきたかによって意味合いや切実さだって変わってしまう。
だからこそそんな面白い「言葉」の存在が愛おしい。

私が言葉に興味を持った原点は子ども時代である。私は本を読むことが昔から大好きだった。
保育園の頃から地域の図書館も一週間に一回は行っていたし、違う図書館へ行く時はわくわくしたものだ。絵本もたくさんあって、本棚から持ってきた絵本をテーブルに平積みにしてはいつまでも音読していた。

小学校になっても本への興味は留まるところを知らず、片道2時間あった通学時間はもちろん、休み時間はグラウンドではなく図書館に入り浸っていたことがほとんどだったと思う。

随分と色んな本を読んだ。「かいけつゾロリ」や「はれときどきぶた」みたいな児童書、3年生ごろには「赤毛のアン」や「坊ちゃん」のような世界的な的名作、デルトラクエストやマジックツリーハウスみたいな冒険のシリーズものも好きだったし、4、5年生くらいから「ハリーポッター」シリーズなども読み耽っていた。

印刷されているのは同じ字体の文字なのに、組み合わせが違うだけで全然違う話になる。
幼いながらもそれがとても不思議で、色んな本を手当たり次第読み漁っていたように思う。

書いている人によって伝わってくる感情や景色が違うことも面白かった。
人の動作ひとつとっても、少し余白のある書き方をする人、細かいところまで描写をする人がいて、頭の中で自分が想像して作り出した映像がずっと動いていた。

主人公が辛い思いをしていたらこちらまで涙が出そうになったりする文章を書く人もいたし、行ったこともない国の景色を「こんな感じかも」と想像させてくれるくらい言葉だけで色彩豊かに表現できる人もいた。

たくさん本を読んでいく中で自分も自身の言葉で情景や物語を紡いでみたいと思うようタイミングが訪れた。
今でも覚えている。
小学校3年生の頃に授業で自分だけの物語を書いてみる授業があって宿題にもなったのだが、あまりに楽しくて期限が来ても物語が終わらなかった。

と言うのも、あまりに世界観が広くなって終着点が見つけられなかったからだ。

主人公と一緒に冒険をする者と、行手を阻む邪魔者や助けてくれる者・・・。自分の頭の中で作り出した島を、頭の中で作った者達が冒険していく。それを言葉にして写しとっていく。文字しかそこにないのに生き生きと景色が見えるのがたまらなく楽しかった。

宿題では原稿用紙5枚程度でよかったしほとんどの子はそれくらいで終わらせていたのに、私は気がついたら20枚くらい書いてしまっていた。

結局完結はせずキリがないので、その時点で提出することになったけれど、先生はその物語や、寡黙な私が珍しく楽しんでいる姿を見て大いに喜んでくれた。
それ以降、私は日々の感情や感じたことを言葉で記す行為を拠り所にすることが多くなったように思う。

ただ、私は小学校5年生の時にいじめを受けた。
私を救ったりわくわくさせてくれていた言葉は、私を傷つける武器でもあるということを身をもって知ることになる。

その頃はあまりにも悲しくて悔しくて、どこにも感情のやり場がなかった私はノートにひたすら黒い言葉を書き殴り続けていた。いじめてくる人の顔、見てみぬふりをした人の顔を思い浮かべながらペンで突き刺すように淡々と言葉を書いた。そうでもしなければ平然とした顔で学校に通い続けることはできなかったから。

それがきっかけで私は人間不信になり、人の言葉の向こう側にどんな気持ちがあるのかをより一層考えるようになる。
目の前で話しているこの人は今本当にこんなことを思っているのだろうか。

真っ直ぐに人の言葉を信じられなくなった私は、人の行動や目の前にいない時にどんな言葉を発しているのかをよく観察するようになる。
そうして過ごしているといつからか、人の言葉が色や質感付きで捉えられるようになった。

いくら偉そうな言葉を発していても画用紙みたいにペラペラな質感の人の言葉は信用できないし、テストの点数が悪くても自分の中の言葉で一生懸命伝えようとしてくれる人の言葉は煌めいている。
今周りにいる仲の良い人たちは、友達が多かろうが少なかろうが人間らしさが滲み出ている人である。言葉に嘘がないのだ。
そんな人と一緒に過ごせる時間に居心地の良さを感じる。

だからこそ私自身も、言葉で伝えたり頭の中にあるものを書き出すという行為を日々大切にしている。
このnoteへの投稿もその一環である。

格好つけずに自分の中にある言葉でどうやって中にあるものを表していくか。
人の使っている言葉の意味を奥のほうまで捉えられるか。

曲がりなりにもそれを続けてきたおかげで、かつて人間不信だった自分でさえどんな人に出会っても会話に怖気付くようなことはなくなった。
それに、イラストを描いたり踊る時にも言語化できているか否かということが質になって出るのだな、ということも最近実感している。

時代がどれだけ進歩しようが、自分がどんな言葉で表すのかと言う行為は大切だ。

未だに言葉への興味は潰えることはない。
これからも自分の中に湧き出るものを大切に文字にして、紡いで、生きていけたらと思う。

読んでくださりありがとうございます。 少しでも心にゆとりが生まれていたのなら嬉しいです。 より一層表現や創作に励んでいけたらと思っております。