中山みき研究ノート4-7 節から芽が出る
教祖は、新暦3月1日に釈放されましたが、12日になって山中忠七と山田伊八郎が教祖の所にお詫びに行った話が、『教祖伝逸話篇』に出ています。この時、二人がご休息所に行くと、いつもは襖を開いて上段からお仕込み下さるのに、その日は襖がピッタリと閉まっていました。廊下から枕元の方に参上すると、教祖は目を閉じて眠っておられるようでした。 忠七が「神さん、神さん」と言ってお起こししたら、教祖は、
と仰せ下さったのです。そして、
「弱っていない証拠を見せるから、手を出してごらん」 と言われました。
二人が手を出すと、その手を寝たまま摘んで、
と仰せられたのです。逸話篇には、この痛さに両名は感銘したと書いてあるのですが、実は寝返りも出来ない教祖が摘んだぐらいでは痛くもかゆくもなかったと思うのです。しかしながら、この力ある限り、難渋だすけは止むに止まれん、と話した思いにこそ、二人にとっては生涯忘れられない痛みも重さもあったのだろうと思われます。
心勇講の講元である上村吉三郎を、最初ににをいがけしたのは山田伊八郎なのです。それまでの倉橋村の伊八郎の講社は小さなものでしたが、吉三郎が道についてから心勇講は大きく伸びました。それで、吉三郎が講元になったのです。当時、宇陀の奥地から300人もの人を集めておぢばに連れて来たことから見ても、吉三郎講元の指導力は大変なものであったと思います。
山中忠七は伊八郎の妻の父親です。この二人が実際におぢばがえりを行なった上村吉三郎に代わってお詫びをする、という形を取っているのです。
もしも教祖が、心勇講がおつとめをしたおかげであの寒い所で苦労させられたという態度だったら、上村吉三郎は「もう二度と目通りかなわぬ」と言われなくとも、お詫びのために身を引かなくてはならないと、当時の人なら思ってしまうはずです。
ところが、教祖は伊八郎と忠七の二人に、
と仰せ下さったというのです。これで、上村吉三郎は敷島初代会長になったと思われます。吉三郎はこの時期、教祖の所にお詫びに行ったところ、心勇講は一の筆や。ようやってくれたなあと、励ましのお言葉と共に赤衣を頂いた、という話を伝える古老もいるが、おそらく、この両方のことがあったのではないかと思われます。
教祖は寝返りもかなわんという身上のまま、一年間、身を隠されるまでお屋敷の外には一歩も出ていません。教祖は神様だから、寒くてもひもじくても弱らなかった等ということは、全くの見当外れです。教祖の場合、100パーセント人間中山みきの体であり、100パーセントたすけたい一条の神の心であるとのはっきりした態度を取られています。体の方は寒ければ寒いし、ひもじければ弱る、叩かれれば痛いのです。しかし、どんな状態の中でも、たすけ一条の心は決して屈してはならないというひながたをお示し下さったのです。
明治18年5月23日から神道天理教会の会長であった真之亮は、櫟本での一晩の取調べで誓ったように、天皇を神として教えなくてはなりません。従って、教祖に再び、天皇も人間だと説かれでもしたら大変です。それで3月中に真之亮は海路をとって、東京の神道本局に出掛けて行きました。当時は神戸から船で横浜に行き、そこから東京に出るのが最も早かったのです。
神道本局は、関東の有力な神社の神主達が役員になっていました。そこで真之亮は大山詣で有名な阿夫利神社の宮司・内海正雄と、深川門前仲町の富岡八幡の宮司・古川豊彭の二人に会っています。 そして、「教祖が天皇を人間であるなどと説かないように、また、菊の紋を附けておつとめなどしない様に、偉い神主さんである貴方達が大和まで来て家のおばあさんに言ってやって下さい。孫の私達がいくら言っても聞いてはくれませんから」と頼んだのです。
真之亮は会長だと言っても、養子に来てまだ間がなく、指導力に至ってはほとんど無に等しいものでした。弟子達の信頼は警察で痛めつけられ、寝付いたままになっている仲田儀三郎や、以前からお屋敷に住み込んで、教祖のお側でたすけ一条の全てのやり繰りをしていた飯降伊蔵に集まっており、その指導力も絶大でありました。
中山家の財産は真之亮を中心とする親戚達が管理していましたが、真之亮としては仲田や伊蔵たちを押えるためにも、神道本局の神主に来てもらいたかったのでした。
その間、4月9日には増野正兵衛が、仲田儀三郎(左衛門)にこうきを口述するから筆記してくれないかと言われましたが、私のような未熟者が尊いこうきを書いても良いのでしょうか、と本席にお伺いしています。
と、おさしづがありました。これは兵神大教会に残されています。死を覚悟した仲田儀三郎が本当の教祖直伝のこうきはこうだ、として口述筆記させたものがこの時期に出来ていたのです。
明治13年に転輪王講社が、教祖に息の根止めると言われても運営され、そこに参画した人達によ って、14、15、16年という時期にはこうきブームと言われる程、数多くの元初まりの話が書き残されています。そのため、どれも星曼荼羅の影響が強いのです。しかし、その時期には教祖の思いを最も忠実に伝えたと言われる仲田や伊蔵達には書いた形跡がないのです。
伊蔵が残したものの中に、表紙に「神のこうき」と書かれたものがあり、今でも飯降家に保存されていますが、その内容はおふでさき全17号1711首がきちんと書かれたものです。こういう状態を考えると、現存する神のこうきはその内容が教祖の教えたものとは大きく変わったものであると推定されます。
仲田儀三郎は6月22日に亡くなり、その子の岸松、楢吉という兄弟のうち、跡を継いだ岸松がその本を見て、こんな恐ろしいものがあったら、また、警察でひどい目に合わなくてはならんと、棺の中に入れて一緒に葬ってしまったという話が残されています。何処かに下書きがあるのではないかと言われていますが、残念ながら未だ日の目を見てはいません。
明治35年に中西牛郎が書いた教祖伝にも、教祖が命がけで真実を説いているのだから我々もという高弟達と、教祖の身が大切、教祖なくしては到底、この教会はやって行けないのだから、真実を説くのは止めようという親族達の間が大きく分かれて、お屋敷は対立していたということが書かれて います。(注=『復元』36号、80頁。櫟155) 教会設立派と世直し派とに分かれたのです。地方の講元達も教会が出来れば、人を集めて教祖の教えを取り次げるのだからと、教会設置の運動に積極的に動き出すのですが、地方の事情からいえば無理からぬ事と思われます。
4-6 最後の御苦労 ←
第4章 扉は開かれた
→ 4-8 五ヶ条の請書
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?