中山みき研究ノート3-12 ぢば定め
その当時、お屋敷では中南の門屋が作られていました。入口の通路をはさんで、西側に10畳の間、東側には仕事場のような部屋がある門屋です。教祖は、門屋の工事が行なわれている時期に、庭の一角に、かんろだいのぢばを定めておられるのです。
つとめ場所は、おつとめを教え、教祖の教えを取り次ぐ所だったのですが、慶応3年から、秀司が天輪明神を祀って拝み祈祷の営業をしてしまったのです。いわば、一度、汚物を盛ってしまったお椀みたいなものなのです。
つとめ場所で教えを聞いていた者は、天輪王明神の国常立命や面足命といったような天皇家の先祖を神と教えられていたことから、教祖が再び同じ場所で難渋だすけの神を説いても、紛らわしいことになってしまいます。
教祖は、そのつとめ場所を離れて、門屋から入り、通り路となる部分を避けた場所に、かんろだいを据えて、おつとめをする場所を定めたのです。つまり汚れたつとめ場所を避けて、天輪王明神の神とは違うことをはっきり示そうとされたのです。
神名として教祖が教えられたのは、転輪王尊という神名一つであります。教祖の教えを理解し、互いにたすけ合って陽気ぐらしの世界をつくろうと心定めした人達の殆どは、お百姓でした。 その人達をつとめ人衆として、お面をつけることによって、あれは何村の何某といった個人的な事柄を一度取り去り、改めて、「くにとこたちさん」「おもたりさん」「くにさづちさん」と皇祖神の名前で呼びあうようにしたのです。 そして、皇祖神も人間であり、たすけあうべきお互いなのだという教理を、 はっきりと目に示し、実感を持たせるために、かんろだいづとめを教えられたのです。転輪王尊という名を、国は神として認めないという中で、強いて神の名だというと人々は皇祖神と誤解してしまうの で、神とはかんろだいで表現する理であるという考え方を示され、おつとめも転輪王のつとめから、かんろだいづとめに換えられたのです。
それまでは、最初に「ちよとはなし」をつとめて、その後に、「あしきはらいたすけたまえてんりんおうのみこと」を21回繰り返していましたが、明治8年、かんろだいの理を教えられてからは、「ちよとはなし」の後、「あしきはらいたすけたまえいちれつすますかんろだい」という歌と手振りをつとめるというように教えられました。転輪王のつとめは手振りもそのままに、後のおさづけになっていくのです。
陰暦5月26日(新暦6月29日)にはぢば定めが行なわれました。その日、教祖はこかんや数人の人達と庭に立ち、門屋から入ってきた人が、おつとめを学んで、心定めをするのに最も適した所はどこか、建物からいくら離れたらおつとめができるのか、お道具をどこに並べたらいいか、といったことを実際に歩いて見極めた上で、「ここやなあ」と場所を定められたのです。そして他の者にも「どうや」とお聞きになると、皆も歩いてみて、「ここです」と納得したのです。
しかし、にぶい人は「どこでもいいじゃないですか」という言い方をしたことでしょう。そういう事が後になると、いかにも不思議な事のように話されてしまうのです。
この頃は、門屋は外側が出来上がり、内造りがすすめられている時であったので、誰の目にも各建物の位置関係は明らかでした。この時期にぢばを定められたのです。昔からぢばという一点が決まっていたのなら、ぢば定めという言葉は生まれなかったと思われます。教祖は明らかにぢばを定めたのです。
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