中山みき研究ノート4-1 布教拡張と弾圧
明治2年正月から書き始められたおふでさきは、まず、屋敷の掃除ということを主題として、秀司の心得違いを諄々と論しています。以来、ともすれば拝み祈祷に流れてしまう人々の心を正しい方向に導き続け、秀司夫妻が亡くなり、転輪王講社が壊滅した明治15年には、その筆を納めておられます。
この年の12月には地福寺との関係も切れてしまい、その後は再び警察の取締りが厳しくなって きました。蒸風呂、宿屋などは全て、まつゑが亡くなった時に廃業しました。隠れ蓑を失ったので、警察の干渉は一段と厳しくなったものと思われます。この頃のお屋敷には、昼はほとんど人がいなかったといわれます。しかし、夜になると何処とも知れず多くの人数が集まり、夜通し教祖の話を聞いては、朝になると帰って行ったという話が伝わっています。その頃の真之亮の手記に、
とありますが、もちろんこの他にも飯降伊蔵一家がお屋敷に住み込んでいました。『稿本教祖伝』ではこの頃のことを次のように書いています。
又、次のようにも記されています。
そして次に、弾圧の様子が出ています。
警察は、教祖の教えが非合法なものであり、明治政府の基本方針には合わないものだということが分かっていたのです。そして、この弾圧が、この頃の自由民権運動の盛り上がりと関連して激しくなっていることも見逃せません。
自由民権思想が国中に広まってくると、政府は憲法を制定することを国民に約束しました。しかし、民権(国民の権利)を強める憲法を作ってしまったら政府は安泰でいられなくなることから、国有財産を天皇家の財産に書き換えることが進められました。そのため、皇室には巨額の資産が蓄積されたのです。
17年には、華族制度が整備されました。明治の初めに、皇族、華族、士族、卒族、平民という階級が作られましたが、その中の華族を、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵と細かく分けて、皇室を守る藩塀として華族制度を強化したのです。さらに、日本の軍隊は議会の決定で行動するのですが、それに対して、近衛師団を強化して、国の軍隊が、苛酷な政策をとる皇族・華族を恨んで銃を向けるという事態に備えたのです。それでいながら近衛師団も国の税金で養っていたのです。
そういう中で教祖は一列兄弟を説き、全ての差別を根本から正すかんろだいづとめの思想を教えていたのです。その象徴が、つとめ人衆の背中に付けられた菊の紋であることから、政府は徹底的に取り締まることになりました。
取り締まられる人の中には、鴻田忠三郎のように、篤農家で新潟の、今でいえば農事試験場にお役人として赴任するというような人もいました。鴻田は教祖のお教え下さる心構えで農業をやれば、一下り目にあるように、
となることから、この教えを皆が身に付けたら収穫量も増え、国も繁栄するはずだとして、許可してくれるようにと国に建言書を提出しているのです。/しかし、これは、政府が山村御殿で最初に教祖を取調べたときから、天皇も人間であるという教えを、基本的に許可することの出来ない教育であると見ていることに気付いていない人達の運動だと思われます。
弾圧の本質が分からないままでいる人達が大勢いました。また、教祖の教えをしっかり聞いて深く理解していた人達は、世直しの教えであるから弾圧されても当然と考えていました。その後、『稿本教祖伝』には16年6月のふしについての記述が続いています。
当時は陰暦で│おつとめ《、、、、》をしていました。それで、4月26日に警察が取締りに来たのを布留の魚磯に連れて行き、酒、肴で接待したものと思われます。
お屋敷に戻って来ると警官等は、お賽銭を上げないように言ってあるのに、上がっているではないかと言い掛かりを付けます。本当に上がっていたのかどうかは何とも言えないが、その時の様子を、
と記しています。巡査は、接待を受けても何もしなかったというとまずいからひと暴れして、それが問題になった時のために証拠が残らないようにと、手続書を書かせています。警官の抜け目のなさはなかなかのものです。
この時に「神の社及び祖先の霊璽まで」とありますが、手続書によると、「巡視相成私先祖亡霊ヲ祭祀致候処御出張ノ際取除グベキ様御説諭ニ預り」と、先祖の亡霊を祀るというおかしな言い方がされています(注=天理教教会本部『稿本教祖伝』256~257頁 1956年刊)。これが仏式の位碑であったのか、神式の霊璽であったのか、教会本部の発表はありません。
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