中山みき研究ノート 1-1 はじめに
第1章 万人のひながた
はじめに
この書は、天理教の教祖と慕われている中山みきの生涯の言行を、虚構を排し、真実を以って綴ろうとするものです。 みきの心を我が心として、陽気づくめの世界実現のために働こうとする人の心の中に、生涯をかけても悔いのない、生き生きとした教祖像を描きもって頂くためのたすけになればという大望を抱いての刊行であります。
中山みきは天保9(1838)年以来、人間の生き物としての歴史を教え、それに基づいて、世界一れつが、互いに補い合い、たすけ合って、陽気づくめという平等な世界を創り出すための生き方を教えると共に、人々の手本になるように自らそれを実践する人生を送りました。
しかし、魂の徳の違いによる人間の序列化を目差す明治天皇制国家は、みきの平等教育に圧力を加え、十数度にわたる投獄という苛酷な迫害の中で、みきは90歳の生涯を終えました。
みきの死後、孫の中山新治郎(真之亮)を中心とする神道天理教会は、みきを弾圧した政府の教育方針をそのまま教義に取り入れて教会結成の許可を受けました (注=「天理教会所設置御願」東京府へ出願、明治21〈1888〉年=巻末に全文を掲載)。 みきは、人々が補い合いたすけ合って、陽気づくめの世界を創り出すという真理を尊んで、「理が神である」という信仰を教えましたが、天理教会では天皇の先祖十柱を「天理大神」と唱えて、応法の理(注=仏教界で言う王法為本のこと、王法とは仏法に対する語で政治をあらわす。 教祖の教えより世俗の法律に合わせた説き方)に教祖の教えを変質させてしまったのです。
中山みきの伝記は、天理教教祖伝として数多く作られましたが、天皇政府が敗戦を迎えるまでは、いずれも、平等な世を望んだみきとは正反対に忠孝道徳の価値観を主にした編纂態度でした。敗戦後、「復元」が叫ばれても、長年「応法の理」に流れた教団の事情によって、教祖の教えに戻ることはなかなか出来ませんでした。
昭和31(1956)年に教会本部が編纂した『稿本天理教教祖伝』も、初代真柱の残した『稿本教祖様御伝』と『教祖様御伝』が底本となっています。『稿本教祖様御伝』は、明治32年に神道天理教会が神道本局の部下を離れて、天皇政府公認の宗教に独立する出願のための教祖伝でありました。明治40(1907)年頃の刊行と推定されている『教祖様御伝』も、明治41(1908)年に天理教が天皇公認になったことを思えば、その内容が教祖の思いに外れているのは無理のないことでした。これらを受け継いでいる現在の『稿本天理教教祖伝』の内容が、教祖の思いに程遠いものであるのも、考えてみれば当然のことです。
芹沢光治良というすぐれた作家の『教祖様』という作品もありましたが、天理教機関紙『天理時報』に連載するという制約はどうすることも出来ず、作者の悔いを残す教祖伝になってしまいました。
この『中山みき研究ノート』の編纂を進めるにあたっては、今までの応法の理の中で著わされた虚飾に満ちた活字の中にキラリと光る教祖の教えの真実を、教祖の書き残したものを網にしてすくい上げる手続きが必要でした。
一つの例をあげてみましょう。
教祖中山みきは、明治8年11月21日、辻(女)・村田(女)・飯降(女)・桝井(女)という人々に次のようにお話しになりました。
同じように泥鰌や小魚が出てきますが、その内容がまるで違う話も伝わっています。
この二つの話は、共に中山みきが話したこととして伝えられ、天理教教会本部の資料として保存されています。しかし、本部によって出版されたのは「おいしいと言うて」の方であります。
うっかり聞いただけでは、二つの話の中にこめられた意味の違いを見落してしまいそうですが、 教祖が残したみかぐらうた、おふでさき、本席のおさしづの内容と比較すると、「おいしいと言うて」の話は、今までの社会の差別思想を支えて来た因果応報の因縁話を排して、平等な世にするために教えた「よろづいさいの元のいんねん」の主題からはずれているのです。
しかし、中山みきの死後、敗戦までの60年間、教会本部は弾圧をさけるため、政府の方針に合わせて「おいしいと言うて」のような因果応報を説き続けたので、多くの信者はいつの間にかこれが正しい教祖像と思い込んでしまった。その中で作られた組織や経済力が、現在の教団になっているのです。教団の実情に合わせて、生まれかわりの話を主題とした「おいしいと言うて」が、『稿本天理教教祖伝逸話篇』となって普及され、「おたまは蛙の子」は、少数の研究者や特に目覚めた求道者の間で語られるだけになってしまっているのです。
従って、現在、活字になって流布している教祖像を、まだ活字にもなっていない手書きの資料で正して行かなければならないのです。 また、この話だけではなく、いろいろに伝えられる教祖の言行も、みかぐらうた、おふでさき、おさしづを、ふるいにして取捨選択しなければならないのです。
この「おたまは蛙の子やで」は、生物の進化ということを踏まえた上での話です。 魚類から両生類に進化した蛙の子であっても、まだ身体が成熟しないときは、進化する前の魚類のように、鮒や泥鰌と一緒に泳いでいられるおたまじゃくしなのです。 しかし、いつまでも鮒や泥鰌と一緒にいたいと思っても、身体が成熟する旬が来ると、水中でえら呼吸が出来なくなり、陸上で肺呼吸をする蛙になってしまうのです。 暮らし方も、快適と感ずる環境も、がらりと変わってしまいます。
これと同じことが人間にも言えます。人間は神の子なのです。 子供のうちは進化していない人間の心で暮らしていけるが、成人したら神の心になって、神らしい暮らし方をしないと喜べないのです。
教祖は、人生を三つに区切って、その時々の心の持ちようを示されました。
ランプにまだ手が届かない子供の時は、「暗くなってきたのは天然自然だから、我慢するより仕方がない」のです。けれども、親は暗いと思う前に燈をつけてやらなければなりません。 未熟な子供は 環境に順応して生きなさい、成熟した親は陽気づくめに暮らせるように世直しをしなさいとお教え下されたのです。そして自ら親としての手本を示されたのです。
中山みきは天保9(1838)年10月26日に、人間は親とか神と呼ぶにふさわしい生物に進化した、と草深い大和の片隅で宣言したのです。 水中から陸にあがる旬が到来したのです。
今までは、相手を倒し、奪い、支配することが喜びと思うような生物でしたが、崇高な神と呼ぶべき人間に進化したので、喜びようが変わったのです。相手を不自由から解放し、すべてのものを用いて相手を補い、喜んで暮らせるようにたすける生き方が、快適なのだと言われたのです。日本の国の教育が、一人の君主が世界を支配する八紘一宇を理想であるとして教えていた時に、一人一人が喜んで暮らす陽気づくめの世界が理想であると説かれたのです。
中山みきが教えた「よろづいさいの元のいんねん」という話は、近頃注目されている、今西錦司氏の住み分け説に近い高度な内容を持つ進化論でもあります。天保9(1838)年という時は、ダーウィンが進化論を発表した1859年より21年も前です。明治9(1876)年アメリカ人モースによって、日本に初めて進化論が紹介されたのは、このおたまじゃくしの話の翌年のことであります。
教祖の死後百年という今日、教祖伝の矛盾に耐えられなくなった人々の思いを受けて、教祖最後の御苦労の場「大阪府奈良警察署櫟本分署跡」を保存し、教祖の真実を後世に伝えんとする人達によって、史実に忠実な教祖伝編纂が進められ、まとめられたのがこの『中山みき研究ノート』であります。
この偉大な先覚者がどのような生涯を通られたか、資料に基づいて辿ってみましょう。
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