中山みき研究ノート3-6 信仰の目標(めどう)
信仰の目標
教祖のたすけ一条の象徴・目標は、後にかんろだいという形になっていきます。しかし、かんろだいという言葉がおつとめの言葉として出て来るのは明治8年になってからです。しかし、かんろだいの意味する、女五分男五分、五分五分のたすけ合いによって永遠の命を得る、という基本理念は、同じ意味である扇の伺いという形ですでに表われています。 みかぐらうた六下り目に、「あふぎのうかゞ ひこれふしぎ」とありますが、この中に、かんろだいづとめを全ての物事を判断する基準にせよ、という教えが込められているのです。
扇は日本の古い伝統では男性の象徴として扱われていました。 そして、両手で扇を持つその形(両手を合わせてふくらまし、扇が鎮座するための鞍の形を作る=みてぐら)が女性の象徴です。この扇の伺いの形は、男性も女性も互いに補い合いたすけ合って、永遠の命を得るという、陽気ぐらしの生み出し方を教えているのです。
扇の伺いがかんろだいの意味であったとみると、神の社になった人の信仰の目標として、後にはかんろだいの理念が教えられるのですが、この時期には、「誰々、黒骨の扇を渡す。神と思うて祀れ」とか「白骨の扇を渡す。 神と思うて祀れ」と言われたと伝えられています。果たして、「祀れ」と言われたかどうかは分かりませんが、互いのたすけ合いによって陽気ぐらしを生み出すという理念を扇によって現わし、それを信仰の目標にすることを、既に教祖はお教え下さっていたのです。かんろだいの理合いそのものが神なのです。
それに対して、天輪王明神の方は、その中に天照大神とその親々が祀られていたので、天照大神の象徴である鏡を以って天輪王明神の理を表わす、という考え方も既に出て来ていたと思われます。
明治7年に天輪王明神は教祖によって止められ、一時中断しますが、後、明治18年に天皇家の先祖十柱を祭神とする神道教会が設立された時に、再び天照大神がその中に入ってきます。 そして、明治教典体制の中で各教会に分霊として鏡が下付されるのです。お目標を鏡としていることは大きな問題を含んでいるものと思われます。
このようにして、慶応3年に秀司は吉田神祇管領の許可を取り直し、営業権を手中にすると、建物の名義の上でも営業権の上でも、全ての面で私がここの主になったのだ、ということから、もう母に遠慮をすることもない、というので、外に住まわせていたおちえ、それにおかのという娘と息子の音次郎をお屋敷に迎えます。それまでは現在の川原城町上街道に沿って、天理新道の南、その裏の方に住んでいたのです。このため、母屋(元の隠居)には秀司、おちえ、おかの、音次郎の一家が住むようになりました。
教祖は、吉田神祇管領の神様が祀られてしまったつとめ場所には居にくかったのでしょう。 どのようにして居られたのか、細かい状況は分かりませんが、伝えられるところによると、教祖、こかんは、綿倉に住んでおられたということです。綿倉と米倉を取り払ってつとめ場所を作ったというが、まだ壊れていない綿倉が残っていたのではないか、あるいは、つとめ場所の傍に掘立柱の小さな建物があったと伝えられていますが、そういう所に教祖、こかん、それに秀司の先妻の子供であるおしゅうが住んでいたものと思われます。さらに、慶応3年頃まで、教祖の元には安堵村の飯田岩治郎母子が住み込んでいたのでした。これ等の人々が互いたすけ合いの世直しを目差して住んでいたのは、中山家の母屋ではなかったのです。
このような状況に対して、明治になって直ぐ、おふでさきで「あくじはろふて」(おふでさき〈一65〉)あるいは「やしきのそうじ」」(おふでさき〈一29〉)と厳しくお示しになっています。外から入って来たおちえにすれば、この家は私の産んだ音次郎が竈の灰まで相続すべきもの、という意識は当然あります。
一方、教祖やこかんには、つとめ場所は世界だすけのために信徒達が一生懸命作り上げたものであるという思いがあります。 当時のお屋敷では、中山家の財産だという考えと、世界だすけのためのたすけ場所だという考えが、秀司側、教祖こかん側と大きく二つに別れて、互いに対立し、渦を巻くという状況が到来していたと思われます。
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