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中山みき研究ノート3-19 転輪王講社の壊滅

秀司は、明治14年4月8日(陰暦3月10日)に61歳で亡くなったが、その時のことを「橋本教祖伝』では、

みのうちにとこにふそくのないものに
月日いがめてくろふかけたで   
(十二   118)

ねんけんハ三十九ねんもいせんにて
しんばいくろふなやみかけたで  
(十二   119)

というおふでさき、、、、、を引いて、「どこも悪いところのない秀司の足にしるしをつけてお道を創めるきっかけとしたが、その後、苦労させたね」と労いの言葉をかけられたように書かれていますが、これは実は十二号のおふでさき、、、、、なのです。39年以前の立教ならば、このおふでさき、、、、、は明治9年に書かれたことになり、秀司が亡くなった明治14年からみれば、5年も前のことなのです。5年前の明治9年は、秀司が蒸風呂を始めた頃で、教祖の心とは反対の方向に行動して行く時です。

この十二号のおふでさきから、秀司はその表紙を書かなくなっています。教祖のたすけ一条には、ついて行けないということがはっきりした時なのです。この時期に書かれたこのおふでさき、、、、、には、秀司を世の常識の目から見るなら、決して悪い人間というわけではないという意味がまず込められているように思われます。また、教祖が正しい道を推し進め、世直しをしていこうとする、誰にも譲ることのできない厳しい道を通られたから、弾圧もあり、ついて来られないのだという思いもあったことでしょう。

拝み祈祷を慶応3年に始めたからといっても、教祖が、厳しく道を通るという事がなければ、その当時の常識で言えば祈祷所を家の中に作っても、別段悪い戸主ではありません。けれども、教祖が理想とする世界の素晴らしさを理解できなかったがために、世情に流れていってしまった長男を思いやった言葉なのです。もし、教祖が世直しという大きな仕事を始めなければ、秀司もごく平凡な庄屋敷村の戸長くらいに治まっていられたのに、という意味のおふでさきであり、わざわざ神様が足を悪くして、教祖に逆らわせ、悪いひながたを見せたのだと理解するのは間違いだと思われます。

明治14年の出来事を上げてみましょう。まず、月日の紋を配られました。教祖の赤衣を三寸程に切り取り、それを12に分けて縫い取りをすると、菊の紋が出来ます。これを月日の紋、あるいは月日の社の紋とされました。また、つとめ人衆に分け与える紋でもありました。 この紋がいつから作られるようになったかはっきりしませんが、 内孫のマチ(後のたまへ)が「私が5歳の時、あの紋を配った」と記憶しているので、これは14年ということになっています。

この頃には、秀司がおつとめを形式だけでもつとめていたので、これを機会に教祖もつとめ人衆に月日の社であることを表わす紋を与えたのです。

4月8日に秀司が亡くなったのですが、『稿本教祖伝』には、「日尚浅い6月の或る日、警官が6名もやって来た」と書いてあります。しかし、同じ6月に秀司の長男である音次郎を外に養子に出したことは全く書かれていません。24歳の音次郎を田村という所の村田家に婿入りさせて、戸籍も6月18日付で移しているのです。

おふでさき十六号には、音次郎を婿に出す支度をまつゑ、、、が先に立って進めているのを見て、

こしらゑをやるのハしばしまちてくれ
とろみづなかいはめるごとくや   
(十六  73)

というお言葉が出されています。

これはまつゑ、、、が、義理の仲の音次郎に支度をするのが随分やり過ぎだから、待て、と言ったように教会本部の註釈書に出ていますが、果たしてそうでしょうか。

秀司が亡くなった時、中山家には教祖とまつゑ、、、、それに前妻の子供である音次郎と、5歳になる自分の産んだマチ(たまへ、、、)という女の子がいました。

音次郎は、このたすけ一条の場所も、跡取りである私のものだ、という思いで暮らしてきた人です。秀司と一緒に綿の仲買いの商売などもやっていたように、『不燦然探知簿』(初代真柱の手記)(注=「教祖御履歴不燦然探知記載簿」『復元』39号、26頁)には書いてあります。 中山家のためには働いても、世界だすけの教祖の思いを推進しようとつとめた人ではないのです。教祖は、この我身思案の心でいる者を、たすけ場所の中心人物にはしたくないという思いがあり、明治2年に書かれたおふでさき、、、、、一号に、そのことがはっきりと記されています。

まつゑ、、、にしてみれば、教祖が音次郎を、たすけ場所の中心には向いていないと思っていることが、半ば幸いと思えたのです。親ならば自分の実子に跡を継いで欲しいと思うものです。そこで6月18日に戸籍を送って音次郎を養子に出し、9月の23日には梶本真之亮を中山家に入籍するという素早い行動をとったのでした(注=『復元」29号、30~33頁。 檪4)。

これは音次郎よりも、こかん、、、が育てて、教祖とも繋がりのあった外孫の方が、たすけ一条の場所を相続するには適しているという教祖の思いもあったことと思われます。また、まつゑ、、、にとっても、いずれ真之亮とたまへ、、、が結婚して、中山家を継いでくれるだろうという期待があったのです。この時、 真之亮は16歳でした。

この時期、真之亮が中山家に入るのと相前後して、飯降伊蔵の妻と子供がお屋敷へ住み込んでいます。

以前から、秀司と山中忠七、あるいは山沢良治郎達が一緒に組んで、転輪王明神を祀ったり、宿屋や蒸風呂を経営し、また転輪王講社を営業したりしていましたが、その間、教祖は伊蔵に自分の片腕となって自分の側で取次ぎをして欲しいということを、何度も言っておられたのです。しかし、伊蔵は、秀司や忠七達とは縁を切っていたので、夜にはお参りに行き、教祖のご用はするものの、昼間の転輪王講社の営業には参加しないという態度を通していました。

それでも、秀司が亡くなり、音次郎が養子に出て、真之亮が櫟本からお屋敷に来るというように状況が変わってきたので、とにかく自分の妻子だけでも一足早くお屋敷に住み込ませて、教祖のご用をさせて頂こうということになったのです。

「一つ所帯で隔てなく過ごそう」という教祖の言葉通り、道具も何も持たずにお屋敷に住み込んだ二人でしたが、まつゑ、、、は大変な始末屋で、炊事や食事の道具から、水を汲むひしゃくの損料までも請求したのです。これには伊蔵の妻や子供は、苦労させられたと言われています。それで伊蔵は仕方なく、働いて仕送りをしていたのでした。

時を同じくして、教祖は真之亮を呼び、伊蔵を呼んだのですが、 秀司亡き後、音次郎を養子に出してからはまつゑ、、、が中山家の戸主になっていました。 こうなることについては、まつゑ、、、の里であり有力者であった小東家の力があったものと思われます。

女戸主まつゑ、、、は7月11日付けで、亡くなった夫に代わって、私が転輪王講社を受け継ぎます、という届けを金剛山地福寺に出しています(注=『復元』37号、209頁。 櫟158)。それに連署しているのが、山沢良治郎であり、音次郎も信者の代表として署名しています。

これは秀司が死んでも教祖の言葉には従わずに、転輪王講社の拝み祈祷の営業は続けますということで、中山家の安泰を図ることだけに心を用いている姿であります。教祖を取り巻く信者達に対抗し中山家を維持するために、親戚連合という形で音次郎を信者総代に据え、山中忠七達の代表として山沢良治郎を補佐役にしています。

また、その頃、警察が何度も教祖を捕えたり、まつゑ、、、を召喚したりしていますが、その時に出した手続書を見ると、女戸主のまつゑ、、、は自分の里から小東政太郎を呼び、多分、会計方などを依頼していたものと思われます(注=『復元』37号、229~231頁。 櫟158)。それに前川家からはこの頃30代であった半七という人も来ていました。

そういう人達が親戚連合を結成して、中山家による転輪王講社の営業体制が固められたのですが、そこに微妙な立場で梶本真之亮が養子として来ているのです。

教祖は以前から「講を結べ」とお話し下さっていました。教祖の教えを直に聞いて理解し、正義感を養い、自分の良心に基づいて生きるという人間に成人して欲しいというのが教祖の思いなのです。教えを正しく学ぶために、地域で世話取りにあたる講元を立てて、集まりを持ってくれというのです。

しかし、秀司は、自分が頂点に立って、自分の教えを説くというわけではありません。信者組織を作って、それを自分の支配下に置きたいということなのです。このため、転輪王講社では村々の信者名簿を出させて数多くの講の結成を図ったのです。そして、この組織が現在の天理教団の基礎になっているのです。秀司の後を継いだまつゑ、、、も、親戚連合を背景に、この方針をも受け継ぎました。

また、この年には石造りかんだいの建設が行なわれました。『稿本教祖伝』には、

「5月5日、滝本村の山で石見が行なわれ、つゞいて5月上旬から、大勢の信者のひのきしんで、石出しが始まり、5月14日には、大阪からも、明心組、眞明組の人達が、これに参加するなど、賑やかな事であった」

とあります。本部の他の資料によれば、この時期に蒸風呂の収入が飛躍的に増加しています。これは教祖の下で大勢の人々がひのきしん、、、、、に汗を流していたことを物語っていますが、一方ではこの人々からも風呂代を徴収するという、まつゑ、、、の抜け目のなさもうかがわれます。

また同じ頃、中山家の経営する宿屋からは、同程度の規模の宿屋が納めるより三倍も多い額が税金として納められています。おそらく、ひのきしん、、、、、を終えた信者達は狭い部屋に折り重なるようにして寝たことでしょう。しかも、この宿屋で出される食事は、「いつもよからぬ大和行き、お粥を食べて18文」という言葉が残されているように、極めて粗末なものであったと伝えられています。

明治15年3月26日(陰暦2月8日)にはいよいよ伊蔵が、教祖の、早くおいで、という声に応じてお屋敷に入りました。これによって教祖を中心とする信仰者の結束が固まりました。それまでも仲田や辻といった人々が、教祖を支えていたのですが、やはり秀司の仕事も手伝わないわけにはいかなかったのでした。その中に、秀司の仕事は手伝わない、教祖の教えだけを実践すると言っていた伊蔵が入って来たのです。

同年5月12日には突如として、上村行業という大阪府の警部が警官数名を率いて出張して、二段まで出来ていたかんろだい、、、、、(注=この石も「つとめ場所」普請のとき、材木を入れた坂の大新、庄司新五郎氏の持山から切り出されたもの。没収された後、明治16年の日付で、上田嘉治郎、中山新治郎連署の礼状が出されている)を取り払い、これを没収するという事件がありました。この時に没収されたものの目録が残っています。

差押物件目録
一 石造甘露台        一個
 但二層ニシテ其形六角
  上石径二尺四寸下石径三尺二寸厚サ八寸
一 唐縮緬綿入        一枚
一 唐金中綿入        一枚
一 唐縮緬袷         一枚
一仝 単物          弐枚
一仝 襦袢          弐枚
一 唐金巾单物        一枚
一 縮緬帯          一枚
一 寝台           一個
一 夜具           一通
  但 金巾ノ更紗大小弐枚
一 敷蒲団  但坐蒲団ヲ云  一枚
一 赤腰巻          二個

教祖が常に身に付けていたものまで没収されたのは、赤衣を着て祈祷や呪術を行ない、人を惑わしていることの証拠とされたからです。

かんろだいが没収されたことについて、たすけ一条の教育をする上からは本当に残念だということがおふでさき、、、、、十七号に記されています(注=おふでさき十七 58)。

6月18日にはまつゑ、、、の姉である松村さくが病気だというので、教祖は河内国教興寺村の松村栄治郎宅に出かけられ、三日間滞在されています。これはまつゑ、、、にかかわる事情のもつれが問題になってくる前に、さくを訪れたものと思われます。

さくの夫で、かつて教興寺村の庄屋を勤めていた松村栄治郎の日記によれば、「9月の中頃にまつゑ、、、のことに付き親族会議があるからといって、さくが出掛けた」という記述があります。そしてその わずか後の9月22日に、年齢からすると考えられないことですが、養子に入ってわずか一年という17歳の真之亮が家督相続をして、31歳のまつゑ、、、が隠居するということが急に行なわれたのです(注=『復元』29号、30~33頁。櫟4)。この時にはまつゑ、、、が病気であったとは伝えられてい ません。そして、その後、前川半七とまつゑ、、、との間の不祥事が表に出て、その結果、まつゑの命を縮めるということになるのです。

この時期、おふでさきの筆がかれます。その終わりは、

さと/\たをと/\びよさま/\    (十七 73)

このはなしあいづたてやいてたならば
なにゝついてもみなこのとふり    
(十七 74)

これをはな一れつ心しやんたのむで  (十七 75)

というお言葉です。「さと」とは前川家、「たをと」は田村の音次郎、そして「びよさま」はまつゑ、、、の実家である平等寺村です。この三軒は中山家に最も近い血縁の家です。

教祖に対抗して作られた親戚連合の中心になる三軒が、信仰がないために事情の淵に沈んでいくことになるから、それを見てよく思案しなさいと結ばれているのです。結果として、ここでまつゑ、、、が倒れます。 前川も遠ざかり、音次郎は16年に中山家に戻って来て、「厄介」という身分になって過ごすことになるのです。

10月12日(陰暦9月1日)から26日(陰暦9月15日)まで、教祖が直々につとめ場所の北の上段の間にお出ましになり、人々を指揮して、毎日、かんろだい、、、、、のある場所でおつとめ、、、、が行なわれました。そのおつとめ、、、、には月日の紋が用いられていました。月日の紋は菊の紋なので、その紋を付けているだけで、警察が止めに来るのは当然のことです。はたして、10月27日に警察の手入れがあり、星曼荼羅を始め秀司が祀り込んだ転輪王講社の祈祷の道具は全て没収されました。

明治7年の大和神社事件の後のように、警察の手によって、またもや、つとめ場所から教祖の教えに反したものを取り去るということが行なわれたのです。このため教祖は10月29日から10日間、奈良監獄署に拘留されました。

教祖は警察に出掛ける時に、まつゑ、、、に「何も心配は要らんで、この屋敷は親神の仰せ通りにすればよいのや」というお言葉を残されたと伝えられています。

11月9日に教祖は帰られたが、その翌日の11月10日にまつゑ、、、は31歳で亡くなったとされています。 しかし『御本席行伝』(清水芳雄、1921年、心の友社刊)には、「松枝子の亡くなられた時は、時も時とて、教祖も、御本席も警察に拘留されて留守中のことであった」とあるので、11月8日であるとも言われています。

その後、音次郎は中山家に帰って来て、以後は飼い殺しの状態です。また、小東家も結果としては家屋敷を人手に渡すことになり、前川家も一時そういう形になるが、これはずっと後のことです。

親戚連合が壊滅していったこの12月から、ご休息所の普請が始まりました。いよいよ教祖を中心にして信仰者達が寄り集い、教祖がお休みになり、また皆が話を聞く場所がつくられることになったのです。

つとめ場所は元治元年に作られ、慶応3年までは曲がりなりにもこかん、、、が中心になって教組の教えを取次ぐ場所でありました。

慶応3年に秀司が十二柱の皇祖神を祀ってからは、教祖は門屋にお住まいになり、庭の一点にかんろだい、、、、、ぢば、、を定められました。 秀司との攻防戦で教祖は門屋まで後退されたのです。

転輪王講社が出来ると、秀司が高弟達まで自分の下に組み込み、お屋敷の全部を占領したという形になったのですが、秀司が亡くなり、まつゑ、、、が亡くなることで、それは消滅してしまいます。

この先、18年になると真之亮は神道の部下となって、つとめ場所に国家の神を祀ってしまうのですが、この15年から18年の初めまでは、教祖を中心とする人達がずっとお屋敷にいて、教祖の教えを歪めることなく取り次ぐことができたのです。ご休息所の普請はこれを象徴するものでもありました。

親戚連合の壊滅に関連して、明治7年12月23日に山村御殿に行かれた頃のおふでさき、、、、、に、

十人のなかに三人かたうでわ
火水風ともしりそくとしれ    
(六   21)

という非常に厳しいお言葉があったことが思い起こされます。天輪王明神を運営していた人達の中の3人、教祖の片腕と皆が思っていた3人に対して「火水風とも退くと知れ」というお言葉が出されたのですが、これを転輪王講社の取り払いという時点から見ると、明治14年4月に秀司、15年11月にまつゑ、、、、16年6月19日に山沢良治郎と相次いで亡くなっています。

この三人は天輪明神の時にも中心的人物でした。また転輪講社でも中心的人物でした。傍からは教祖の片腕とも目され、十人のつとめ人衆を数えたら誰もが最初に指を屈っするこの人達が、実は神様のお心に添っていないということを、明治7年のおふでさき、、、、、の中にすでに歌い込まれていたのです。

かんろだい、、、、、の石取り払いの後で、おつとめ、、、、の言葉が変えられました。おつとめ、、、、の言葉は最初は、

あしきはらい たすけたまえ
てんりんわうのみこと

と教えられていました。教祖は、一人々々が親神の心を理解し、神の社となり、自らがこの世界の甘露となって生きることを教えられました。 阿弥陀仏を甘露王如来と呼んでいたように、たすけ一条の心定めをして、一人々々が生きた阿弥陀仏のように、転輪王のように、甘露王如来のように、たすけ一条に生きるという悟りを、しっかり固めるために教えられたおつとめ、、、、です。

その後、明治8年頃になって、

あしきはらい たすけたまえ
いちれつすます かんろだい

おつとめ、、、、が教えられました。一人々々の悪しき心遣いを払って、かんろだい、、、、、の理を理解し実践していけば世界の悪しきが払われ、この世界は澄み切った陽気づくめの世界に立て替わるのだという教えです。

けれども秀司は拝み祈祷に流れ、私が甘露を頂きたい、人より長生きしたい、というご利益むを願うおつとめ、、、、に変えてしまったのです。この時、

あしきはらい たすけせきこむ
いちれつすます かんろだい

と改められました。しかし、ご利益を頂きたいという欲の心でおつとめが行なわれても、世の中は澄まないのです。

我身思案の人達によって一度汚染された悟り、歪められてしまった教理を、教祖の教えられた悟りに戻し、つとめ人衆の心を澄まさなければなりません。その上で改めて、かんろだい、、、、、の理を心に治めたすけ合わなければ、陽気づくめにはならないことをはっきりさせるために、

あしきはらい たすけせきこむ
いちれつすまして かんろだい

と、さらに言葉を変えられたのです。

3-18 こふきへの疑問
第3章 教祖の道と応法の道
4-1 布教拡張と弾圧


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