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中山みき研究ノート3-1 つとめ場所

第3章 教祖の道と応法の道

つとめ場所

吉田神祇管領からの許可証が届いた頃のお屋敷は、正面入り口の小さな門屋は昔のままであったが、母屋は取り払われ、その跡には大きな石がごろごろしている、といった有様でした【母屋を取りこぼった折に、門屋は取り除かれ、冠木門になっていた。(櫟762)】。その奥に隠居とよばれた建物があり、そこは以前、こかん、、、夫婦が住んでいた所です。ところが、母屋が取り払われると、秀司はこの隠居に住むようになり、教祖やこかん、、、は住む所を失って、わずかに残っていた綿倉や柴倉に仮住まいすることを余儀なくされました。

その頃までには、櫟本いちのもと櫟枝いちえだ治道はるみち安堵あんど平群谷へぐりだにといった所に、大勢の話を聞き分けた人が出来てきました。一方、国中くんなか(大和盆地の中央部)の方にも信者が出来て、お屋敷には大勢の人が寄っていました。それで、こかん、、、の許可証が届くと、すぐに普請の話が出て来たものと思われます。教祖はすでに70歳に近いので、教祖の教えを受けて実際に動くこかん、、、を名義人として、つとめ場所の普請が相談されたのです。

許可証の日付は元治げんじ元年2月、となっていますが、この月の20日に改元があったので、元治元年2月は10日間しかありません。しかし、『御水屋敷並人足社略伝』では、

程もなく御許しなりとて、奉書へ立派にかゝれしを二通持参せられたり。此のときより左の守りを参詣人にわたすことゝなり。 時は文久4年の4月なり

として次に掲げた図が記録されています。

「4月」とあるのは、許可証が届いた時なのか、それとも厄病除や疱瘡許しの御札が出た時なのか曖昧ですが、とにかく4月の頃には秀司が疱瘡よけの御札を出しています。その御札には真言密教で使っている梵字が書いてあります。アン、バン、ウンという文字で、それぞれ、胎蔵界大日如来、金剛界大日如来、それに独立した大日如来を表わしています。全体が赤い紙で出来ているのは、当時の風習では、疱瘡神は赤い紙や赤い絵などを避けて通る、とされていた事によるものと思われます。

教祖のをびや、、、ほふそ、、、のゆるしは、只の流行り病で神の祟りではないからお守りもいらないという、きわめて合理的な教えでしたが、その教祖のもとに大勢の人が集まるのを見て、目先の利く秀司 は「これは金儲けになる」と直感的に感じ取ったのでした。そこで時を移さず、赤い紙で作った疱瘡よけの御札を出して、信仰を営業にしてしまっているのです。

それまで、秀司は教祖の行動に協力しませんでした。米相場での失敗以来、完全に傾いてしまった中山家の中にあって、細々と綿の仲買いなどをやって辛うじて過ごしている、という毎日でした。男として所を得ていないという苛立ちが秀司を苦しめます。しかし、それにも増して気掛りなのはこかん、、、のことでした。自分の失敗から夫婦別れをさせてし まった上に、おしゅう、、、、という娘を育ててもらってもいたのです。従って、こかんに対しては非常に屈折した感情を持っていたようで、これが、生涯、こかん、、、を夢中で追い詰めて行く事の深層心理的原因であると思われます。

このような状況の中で、まいり場所を建てようという話が持ち上がり、皆で相談したところ、最初にお金が30両寄ったと、『復元』32号にも出ています。これは、どう考えても安堵村グループから出たとしか思えません。また、この少し後に、飯降伊蔵が5月に入信してすぐ「お社なりと作って…」と申し出て来たので、この普請の話に合流することになりました。そして伊蔵は大工仕事一切を無賃で請け負い、西田伊三郎は畳8枚、仲田儀三郎は畳6枚、辻忠作は瓦、とそれぞれ献納を申し出ています。

このように、皆が骨を折り、こかん、、、のために建物を作るということを見て、秀司は、儲からない仕事と思っていたのに、自分が商売であくせくしているよりもはるかに多額のものが、皆の誠の心で寄って来ることが分かりました。そうすると、「これは大変だ。戸主としての立場がなくなる」という思いから、4月頃に山中忠七を尋ね、何事か相談しているのです。

山中忠七は文久4年正月半ば頃、つまりこかん、、、の許可が出る少し前に話を聞き入信しています。 南の方に布教線を伸ばしていた芝村の清蔵という人からにをい、、、がかかったのです。

当時、中山家や前川家は5荷の荷で縁組をする格式の家柄であったのに、大豆越まめごし村の山中忠七は7荷の荷の格式の家だったので、人々の中では一番の旦那衆であり、有力な人でした。その人が正月半ばに教祖のことを聞き、2月に初めて参拝していたのでした。

山中家の記録では、4月に秀司は教祖の命を承けて来たことになっていますが、そうとは思えません。 そこでは、「皆さんがお金を持って来たら、戸主である私が受け取ります。あなたはその金銭出納係になってくれまいか」という相談があったと思われます。

この話が出来たすぐ後に、伊蔵が産後の煩いをたすけて頂いたことからお参りに来ました。皆の思惑にぴったりの大工がやって来たのです。伊蔵にしてみれば、以前に普請の話があったということは知りません。 自分が入信したとき、 神様は大工である自分を「まっていた」と言って下さったのだし、御礼に小さなお社を作ろうとしたら、たすけ場所を作ってくれと頼まれたので、感激して自分が皮切りとなったのだ、と思っているのです。

こういう背景の下で、山中忠七は「費用一切引き受けます」と言っていますが、これは金銭出納係として、足りなくなれば出そう、という意味合いです。しかし、他の心定めした人達は、すぐにお金を持って来ましたが、山中家の記録では完成するまでお金を出していません。

このとき60両の普請金が寄った、と書いてある記述もあります。それは教祖伝としてはごく初期の『御教祖御実伝』という本の中にある記述であり、後に加納分教会の会長になった奥谷文智が晩翠というペンネームを用いて書いたものです。また、大正8年に『教会発達史』(著者は小野靖彦本部員) という本が天理教青年会から出されていますが、その中に、

その金額は総計数十両、これを本教の現状に比べてみるとうたた隔世の感に耐えないものがありますが、然し当時に在っては正に大金であったに相違ありません。 否或は予想外の寄付高であったかも知れません。

とあります。本部の公式の文書に、お金がたくさん寄ったということが書いてあるのです。

いよいよ普請が始まります。最初は30両寄って、そのうちだんだん増えて60両になったのだろうと思われますが、皆から寄ったお金の内、5両を手金として、阪(現在は合併して滝本になっている)という所にあった「大新」という材木屋に持って行きます。当時の風習として、残金は完成した後の支払い、ということになっていました。

普請は順調に進み、9月13日には手斧ちょんの始め、10月26日には棟上げが行なわれました。 この棟上げの時には、伊蔵と忠七が大いに歌を歌い、お祝いしたと伝えられています。

しかし、これだけのお金が寄っているのに、棟上げの時に中山家が用意したものは、 干物のカマス一匹ずつに御神酒一升だけでした。十数人の手伝いがいたと伝えられるのに、それだけのお酒では、茶碗に注いだだけで終わってしまいます。 呼び水を飲んだ程度で物足りない、というので、伊蔵の妻のおさと、、、がお酒の追加を買いに行きました。しかし、酒屋で、「善右衛門さん(秀司)の所には貸し売りは出来ない」と断わられたので、帯を解き、それと引き替えに一升借りて来たのでした。

棟上げの後も工事は順調に内造りが進み、11月中旬にはどうやら完成し、12月中旬には全て竣工した、と古い資料には書かれています。ところが、この年も暮れとなって、支払いの期限が近づいて来たにもかかわらず、 秀司は払おうとしないのです。

つとめ場所は3間半に6間というたった21坪ですから、まるで教室か倉庫のような建物で、内部は8畳間が3つと6畳間が3つに、ただ仕切ってあるだけで何もないに等しいものでした。本部の資料にある30両説をとっても、最初に寄ったお金だけで十分な金額が秀司の手許にあるはずなのです。

しかし、秀司は、材木代の残金はこかん、、、名義の普請なのだから、こかん、、、の借金ではないか、材木を注文して切ったり削ったりしているのは伊蔵ではないか、というわけです。

そういう状況の中で、伊蔵は大工であり、自分が材木を入れたのだからと、支払い期日前に阪の大新に行って「いろいろと費用がかさみまして支払いが出来ません。どうか待って頂きたい」と頼み込んでいます。 そしたら、「まぁあんたも大変だろう」と快く待ってくれた、ということです。お金を受け取った秀司と山中忠七は結局、支払いをしないまま年を越してしまいます。

年は明けて、元治2年(慶応元年)、完成したつとめ場所の中で、こかん、、、を中心として教祖のお話を取り次ぐというお道本来の形が、どうやら順調に動き出しました。しかし、その側で秀司は安産の御供を売ったり、疱瘡よけの御札を売ったり、という営業をやっていたのです。教祖やこかん、、、の、理に基づいて心を立て替えれば、勇んで暮らせるようになるという守護の説き方と、お札やお守りを売っている秀司とはどうしてもうまく行きません。

この頃の秀司は、普請金の残金や大勢の人のお賽銭を懐にして、お屋敷の経済を手中にしてはいても、妹こかん、、、を中心とする信仰者の中にあっては、いわば日陰者の身でした。どうも自分は宙に浮いている、と感じていた秀司は、「やがては、自分を中心に…」という思いを固めていきました。

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