中山みき研究ノート2-16 こかん名義の許可証
こかん名義の許可証
その後、教祖がそのまま飯田家に滞在していると、噂を聞き付けた金剛院の祈祷師と、法隆寺村の山伏の取締りであった古川豊後守という人が連れ立ってやって来ました。『御水屋敷並人足社略伝』には、
更にまた、
とあります。引用が長くなりましたが、この文書から、教祖が、吉田神祇管領の下役である古川豊後守という神職と奈良金剛院(奈良興福寺の塔頭。興福寺の祈祷の部分を担当していた所で、今の県庁北側の駐車場辺りにあった)の坊さんとの間で交した問答の内容が大変細かく分かります。
それによると、この二人は許可も受けず、勝手に祈祷しているのはけしからん、祈祷の許可権限は吉田神祇管領が中世以降委任されているが、その前は興福寺が大和一帯を支配していたのだから、吉田神祇管領や金剛院に願うべきものである、と言って来たのです。また、それ以前に北大和一帯での許可権限を持っていたのは松尾寺であることから、この後の慶応2年には、その末寺である小泉村不動院の坊さんが文句を付けに来ています。
当時は現在のように、行政上の管轄区分がはっきりせず、 許可権限が複雑に入り組んでいました。これはかつて、将軍や天皇、殿様などから依頼された祈祷に成功すると、褒美としてその祈祷師に、祈祷の許可権限が与えられる、ということが重なったからです。
それで、庄屋敷村で祈祷をしていると、俺の許可を取っていない、こっちの許可を取っていない、それぞれに主張してきたのです。これは、現在の役所の許可とみるよりも、商売をする時には土地の顔役に話を通し、所場代を払うという事とほとんど変わりません。
さて、飯田家にやって来た二人は、教理論では、教祖に全く歯が立ちません。一人も余さずたすけたいという思いを持つ元の神・実の神の社となって、生き甲斐ある人生を送るところに、どんな勇んだ暮らしも出来てくる、という話を聞かされたら、もう、どんな言葉も出て来ません。二人はひたすら非礼を詫びましたが、それでも、何とか許可だけは取って頂きたい、私等がその手続きを致しますから、と食い下がります。そこで教祖から5両、飯田家から3両の合計8両のお金を古川豊後守に渡し、許可を取って来てくれるよう頼みました。
教祖は同じ吉田神祇管領からの許可について、慶応3年の秀司の場合には非常に厳しく叱っておられるのに、この時、こかん名義での出願には笑いながら、あれは金が欲しいのだからやったらいい、などと言って許しています。
吉田神祇管領では、神道、真言密教、それに陰陽道とを取り入れて、それを一つに組み立てて唯一神道と唱えていました。したがって、転輪王や毘沙門天といった仏教系の神であろうと、また、純粋の日本の神道の神々を祀るのであろうと、さらには星を祀るといっても、それらは皆、唯一神道の教義の中に入るので、許可を与えることが出来たのです。
それで、教祖が、転輪王の社になって人をたすける心で通りなさい、という教えを説いても、吉田神祇管領としては別段、構わないのです。しかし、秀司の出願は事情が違うので、それについては後の章で詳しく考えてみたいと思います。
当時、この許認可料がはっきりと決まっていたというわけではなく、中間取次ぎの神職達の懐に相当落ちるようになっていました。これは家元の看板料のようなもので、途中のお師匠達も皆、幾分かの分け前に預かるのです。現在の天理教にもこの名残りがあると思われます。したがって、京都の神祇管領が許可を出すのに8両も必要ではないことを見抜いた教祖は、「あの人達はお金儲けしたいのだよ」と言って笑っておられたのです。
まもなく、奉書に書かれた立派な許可証が届けられましたが、これは後に「偽物である」として、当時の大和一国神職取締りであった守屋筑前守に取り上げられたという事も書かれています。それが最近になって、守屋神社の古文書の中から発見されました。それには中山小嘉舞(こかん)の名義で、
とあります。 木綿だすきというのは、木綿や麻で出来たたすきで、これを掛ければ聖なる者となるわけです。このたすきの結び方が決まっていて、片かぎに結ぶと片だすき、これを組んで両袖に掛けるようにしたものが四つ組木綿だすきということです。
現在では神職が着る浄衣とか狩衣などが聖なるものであると思われていますが、当時は位のある人の普通の服装ですから、神事をする時には、その上に木綿だすきを掛けたのです。どちらの肩に掛けるなどという事も決まっていたのでしょう。この許可は吉田神祇管領の性質を表わしていると思われます。また、
も免授すると、この許可証には書いてあります。中臣の祓いは神道系のものです。中臣とは朝廷の中で神道を司っていた家柄です。三種の大祓いは、陰陽道から来ているものであり、六根清浄の祓いは仏教との習合から出て来たものです。これらの名前からして、吉田神祇管領では看板料さえ払えばどんな事でも許可をしたということが分かります。
この許可証が届いたのは、この文書では文久4年子の4月となっているが、文久4年に4月はありません。この年の2月20日で「元治」と改元になっています。これは記録違いで、許可証の日付は 「元治元年子の2月」となっています。ですから、これは2月20日以降の10日間に吉田神祇管領長上家から許可が出されたことを表わしています。
これを偽物として、後に守屋筑前守が取り上げたとありますが、その後に守屋神社から発見された許可証の真贋は問題として残して置こうと思います。
この許可を得る時、古川豊後守という神職と金剛院の坊さんに8両渡しています。中山家が5両、飯田家が3両です。しかし、これは教祖が飯田家におたすけに行かれた時の事です。女の身で5両もの大金を持ち歩くことはあり得ません。したがって、これを渡す時には飯田家が8両とも立て替えたものと思われます。
許可証が来てから、中山家の戸主である秀司に5両を請求したものと思われますが、その時、「そんなお金の事は私は知らない」と言って半分に値切ったとすると、2両2分になります。4分で1両 だから、これは5両の半分です。『稿本教祖伝』にはこの頃のこととして、「並松村で稲荷下げをする者が来た時は、先方の請いに委せて2両2分を与えられた」とあります。また「並松村の医者古川文吾」という名前も出ていることは先に述べました。
ところが、並松村で稲荷下げという祈祷の権限を持っていたのは古川豊後守なのです。
また、「古川文吾」という名前の医者はおりません。医者として治療にあたっていたのは、飯田家の文書では「今村文吾」なのです。この今村の一族は、昔から医者で実在しており、今村文吾の甥に、医学が中心であった昔の大阪大学の総長になった人が出ています。また、この総長の兄弟で、丹波市の中山という家に養子に来た人が、教祖50年祭の頃、丹波市の町長を勤めているのです。
このように、今村家は医者の名門であり、今村文吾は「宗博」という号を持った、有名な医師(注=櫟31)であります。この医者がお金をよこせ、などと言うはずはありません。
稲荷下げといえば山伏であり、その取締りといえば吉田神祇管領の下役である古川豊後守なのです。つまり、医者と、お金を受け取った古川豊後守とは別人なのです。ところが、『稿本教祖伝』では「医者古川文吾」と出ています。こういう名の医者はいないし、子孫もいません。かつていたという話もないのです。
飯田岩治郎は初代真柱と教理の上に意見を異にして、神道天理教会から別れていきます。このことが、飯田家の出来事を詳しく伝えないという方針を教会本部の中に作らせたものと思われます。それで、しっかりした記録があるのに、それとは異なる、わけの分からない書き方が行なわれているのです。
ところで飯田家に残っている文書から、安堵村に大勢の人達が寄り、その中から、安堵村、平群谷というように講社が伸びて行き、さらに大阪の方にも道が広がって行ったことが分かります。最初に教祖が滞在された安堵村の岩治郎宅から伸びた道が、当時のいわば布教の大動脈であったことがうかがわれます。
この頃、教祖は辻忠作の妹くらの気の間違いをおたすけされています。この時も別段、祈祷などをされたわけではありません。飯田家より少し早い文久3年3月4日に忠作は初めて参詣して、おたすけを願ったが、その時教祖は「此の所八方の神が治まる処、天理王命と言う。ひだるい所へ飯食べたようにはいかんなれど、日々薄やいで来る程に」と仰せられた、と『稿本教祖伝』に書かれています。
この中の、天理王命は、当時は転輪王尊と唱えられていたはずです。そして、すきっ腹のところにご飯を食べたように治るというわけにはいかないけれども、日々薄らいでくるよ、とおつとめを教えられたのでした。
当時の女性は、人間の尊厳という点で多くは認められていませんでした。男の付属品として、女は三界に家なく、生まれては親に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従うのだ、というように人権が無視されていた結果、女の人は萎縮して、総じて「欝」の状態にあったと言っても言い過ぎではないと思います。
気の間違いというものは当時は、厄介な憑き物があったのだ、というのが大体の考え方でしたが、現在から見るなら、それは抑圧に耐えきれなかった人が逃げ込む所とも考えられます。
この時に教祖はおつとめを教えられたのです。そしてそれに託して、女松男松隔てなくたすけ合う、という元初まりの真実に基づく陽気世界の作り方を教えられました。人間の心の中の矛盾を解くために理を教えられ、正しい生き方を指導したのです。それが理解され、心定めが出来、身に備わった時には、心の悩みも身の悩みも、回復していったのです。
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