いよいよ、明治20年陰暦正月26日のおつとめになります。しかし、これは身上平癒のおつとめではありません。「おつとめをしたらお身上よろしくなりましょうか」という問いに対して、教祖は三度も「あかん」とか「ならんならん、むつかしいことをいいかける」といった言葉で、おつとめをやってもこの身上は治らない、という意味のことを言っておられます。これも兵神版のおさしづの中にははっきりと書き残されています。
本部版では「ならんならん、むつかしいことをいいかける」と一回だけしか出てきませんが、実際には何回も繰り返されていたので、ほとんどの高弟達は教祖が身を隠されることを覚悟しておりまし た。この日、
というお言葉が出ています。その時が迫っていたのです。最早、躊躇している時ではありません。実際、この日の昼頃には、教祖の爪の色が変わって、お身上を隠される事は皆の目にも明らかでした。
「中山様、もう時間がありません。おつとめをさせて頂きましょう」と口々に決断を促し、膝先でにじり寄ってくる高弟達を前にして、ようやく真之亮も心を決め、「よし、やろう」と立ち上がったのです。
この時、二代真柱の『ひとことはなし』によると、教祖のお居間の次の間に梶本松次郎と飯降伊蔵が座っているところに、梅谷四郎兵衛と平野楢蔵と増野正兵衛がおつとめ着を着て通りかかりました。伊蔵はそれを呼びとめて、これからおつとめをした者は皆、高山に連れて行かれる。しかし、皆が警察に逮捕された後で大事な大事な仕事があるのだから残ってくれ、教祖大切と思うならつとめをしないで残ってくれ、と言われました。それで、梅谷四郎兵衛と増野正兵衛は次の間に残りました(注=『梅谷文書』112~114頁 <船場大教会> 1951年刊。櫟141。『おやさま』132~133頁 <主婦の友社> 1985年刊。 櫟142)が、教祖の教えをよく理解していなかった平野楢蔵は教祖身上平癒をお願いに行ってしまったのです。こうして、教祖のお側にはおひさ、足もとにはおまさ、次の間にはご容体の急変に備えてこの四人が控えていることになりました。
厳寒の時なので、皆は捕まっても凍えてはいけないとたくさん着込み、パッチも二枚重ね、足袋も二枚はいて支度をしました。 そして、当時、かんろだいは取り払われていたので、それに代わるかんろだいを据えて、それを囲むように庭に荒むしろを敷きつめ、おつとめは始まりました。
おつとめは順調に進み、やがて十二下り目も最後にかかって来ました。その時の状況を史料集成部 の白藤義治郎氏は教祖50年祭当時、『みちのとも』に連載された『御教祖御臨終のおさしづの考察』 に次のように記しています。(一部仮名づかいを改めました)
こういうおさしづが御臨終の直後に出されたのだが、ここで重要なのは、「そらいかん、何を言うぞ」というのもおさしづだということです。神様のお言葉なのです。
教祖に生き続けて頂いて、たすけて下さいとお願いする信仰を「そらいかん、何を言うぞ」とお叱りになったのです。
今のおつとめでお前は神の社になって、人だすけをすると心定めしたではないか、だから「さづけ」を渡すのだというのです。「さづけ」を許されたようぼくが、存命の教祖におすがりしてたすけて下さいなどと言うのは、教祖の教えと迷信とを混同した最たるものであります。このお言葉も含めた全部のおさしづをきちんと考え直す必要があるのです。
たすけ一条の心定めをした人の心の中には、いつまでも教祖は存命です。次々と誕生する第二第三の生きた神の社が、陽気づくめの世界を創造して行くのです。
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