
中山みき研究ノート4-10 神の社の心定め
いよいよ、明治20年陰暦正月26日のおつとめになります。しかし、これは身上平癒のおつとめではありません。「おつとめをしたらお身上よろしくなりましょうか」という問いに対して、教祖は三度も「あかん」とか「ならんならん、むつかしいことをいいかける」といった言葉で、おつとめをやってもこの身上は治らない、という意味のことを言っておられます。これも兵神版のおさしづの中にははっきりと書き残されています。
本部版では「ならんならん、むつかしいことをいいかける」と一回だけしか出てきませんが、実際には何回も繰り返されていたので、ほとんどの高弟達は教祖が身を隠されることを覚悟しておりまし た。この日、
さあ/\一つの処、律が、律が恐わいか、神が恐いか。この先どうでもこうでも成る事なら、仕方があるまい。前々より知らしてある。今という刻限、今の諭じゃない。どういう処の道じゃな、尋ぬる道じゃない。これ一つで分かろう。
というお言葉が出ています。その時が迫っていたのです。最早、躊躇している時ではありません。実際、この日の昼頃には、教祖の爪の色が変わって、お身上を隠される事は皆の目にも明らかでした。
「中山様、もう時間がありません。おつとめをさせて頂きましょう」と口々に決断を促し、膝先でにじり寄ってくる高弟達を前にして、ようやく真之亮も心を決め、「よし、やろう」と立ち上がったのです。
この時、二代真柱の『ひとことはなし』によると、教祖のお居間の次の間に梶本松次郎と飯降伊蔵が座っているところに、梅谷四郎兵衛と平野楢蔵と増野正兵衛がおつとめ着を着て通りかかりました。伊蔵はそれを呼びとめて、これからおつとめをした者は皆、高山に連れて行かれる。しかし、皆が警察に逮捕された後で大事な大事な仕事があるのだから残ってくれ、教祖大切と思うならつとめをしないで残ってくれ、と言われました。それで、梅谷四郎兵衛と増野正兵衛は次の間に残りました(注=『梅谷文書』112~114頁 <船場大教会> 1951年刊。櫟141。『おやさま』132~133頁 <主婦の友社> 1985年刊。 櫟142)が、教祖の教えをよく理解していなかった平野楢蔵は教祖身上平癒をお願いに行ってしまったのです。こうして、教祖のお側にはおひさ、足もとにはおまさ、次の間にはご容体の急変に備えてこの四人が控えていることになりました。
厳寒の時なので、皆は捕まっても凍えてはいけないとたくさん着込み、パッチも二枚重ね、足袋も二枚はいて支度をしました。 そして、当時、かんろだいは取り払われていたので、それに代わるかんろだいを据えて、それを囲むように庭に荒むしろを敷きつめ、おつとめは始まりました。
おつとめは順調に進み、やがて十二下り目も最後にかかって来ました。その時の状況を史料集成部 の白藤義治郎氏は教祖50年祭当時、『みちのとも』に連載された『御教祖御臨終のおさしづの考察』 に次のように記しています。(一部仮名づかいを改めました)
その頃御休息所に数氏の御看護を受けさせられて、御臥床にあらせられた御教祖は、鳴り響いてくる勇ましい陽気なおつとめの歌声、楽の音を聞し召されて、いと御満足げに拝せられたが、 次いでそのおつとめ半ばを過ぐる頃より、北枕西向きとならせられ、御右手を外孫梶本ひさ女の胸に、御左手を御自らの御胸の上に置かせられて、静かに御やすみ遊ばされたのであります。しかしながら、それがやがて御永遠への御眠りに、否、 やしろの御扉を開かせられて、永遠に出で立ち給うとは、誰一人として思いそめなかったのであります。
一方「かんろだい」を芯に、なされていたおつとめは順次終わりへと、幸いに警察官憲の臨場干渉も受けずに実に不思議にも運び行きて、今や十二下り目の最後の御歌、
「十ド このたびいちれつに だいくのにんもそろいきた なむてんりおうのみこと」
…と、次いでいよいよ最後の「なむ」と、一同斉唱とともに「かんろだい」を背後として最初の基位置に、方向転換の足を踏み変えた際、にわかに御休息所の方より血相を変えて馳せ来る一高弟がありました。(中略)一同はその異常なる顔色を見て、期せずして、
「きっと警察が来た」
と直感したと言われています。しかしながら、その高弟の告ぐるところには、
「御教祖様、今息御引き取りになりました」
という、さらにより重大なる悲しき知らせをもたらしたのでありました。一同は、
「唯わぁと一言言ったばかりや。あとは何とも言葉の出す者がなかった」
との現存高井猶吉先生のお言葉のごとく、また涙もろき女性たちは、その場所に打ち倒れて、唯泣くばかりであったと、先般亡くなられた故永尾芳枝女史の御言葉のごとくであったのであります。
その時誰かは判然せぬが、
「何時や」
と尋ねる声に応じて、増野正兵衛氏が、
「二時や」
と答えられたと言われています。それは正に稀世の聖教祖の御臨終の御時刻を、永遠に録する言葉であったのであります。
やがて一同は、真柱中山新治郎様を先に立てて、今の今まで御存生であらせられた、今は亡き御教祖の御休息所の八畳の間へと伺候したが、あまりの衝撃に、誰も彼もさしうつ向いたまま、暫しの間は一言の言葉を出す者もなかったと言われています。 正に呆然自失そのなすところを知らなかったと言いましょうか、唯あるものは涕泣鳴咽のみであったと言われています。 親侍した高弟の一人、清水与之助氏は、自らその時の心持ちを叙して次のごとくに、
「右のおつとめは、午後一時より始まり(中略)午後二時頃終わる。おつとめ仕舞になるのと、親様御身御引取りになるのと、たてあいになり、実に/\/\/\一同何とも/\/\言葉なし」
と述べられているのであります。
「どんなに圧迫干渉にあおうとも、御教祖様の居らるる以上は、どこまでも力強く、安心もし、堪え忍びしてきたのであるが、いまやその御教祖様に離れたので、何とも言えぬ淋しい、真に滅入るような心持ちで、何をどうしてよいのやら、途方に暮れた」
とは、初代管長様の後の御述懐であらせられる。実際この時、今は空しき御亡軀を目前にして、一同は何とも言葉なく、唯々涙するばかりでありましたが、しかし、
「いつまでもこうしておってはどうもならん。伊蔵さんに願うたら」
と、誰となく言い出られて、やがて一同は起ち上がって、なおも不時の干渉を慮られて、内蔵の二階へ上がり、飯降伊蔵様を通して神意を伺わるることとなったのであります。
席定まって真柱中山新治郎様は、落つる涙を打ち払われながら、一同を代表して、
「皆一様に願う心は、親様にまだ御身に温みがありますから、もう一度親様の御身上を、元の身体にして下され」
と、まず御願いあらせられました。 (中略)
しかしながら親神様は言下に、
「そらいかん。何を言うぞ」
と御叱りあって、以下のごとくおさしづ下されたのであります。
「さあ/\ろっくの地にする。みな/\揃うたか/\。 よう聞き分け。これまでに言うたこと、じつのはこへ入れて置いたが、神が扉開いて出たから、子供可愛いゆえ、親の命を25年、さきの命を縮めて、今から助けするのやで。しっかり見ていよ。今までと、これからさきと、しっかり見ていよ。扉開いてろっくの地にしようか。扉閉めてろっくの地に。扉開いてろっくの地にしてくれと言うたやないか。思うようにしてやった。さあこれまで子供にやりたいものもあった。なれどもようやらなんだ。又々これからさき、だん/\に理が渡そう。 よう聞いて置け」
こういうおさしづが御臨終の直後に出されたのだが、ここで重要なのは、「そらいかん、何を言うぞ」というのもおさしづだということです。神様のお言葉なのです。
教祖に生き続けて頂いて、たすけて下さいとお願いする信仰を「そらいかん、何を言うぞ」とお叱りになったのです。
今のおつとめでお前は神の社になって、人だすけをすると心定めしたではないか、だから「さづけ」を渡すのだというのです。「さづけ」を許されたようぼくが、存命の教祖におすがりしてたすけて下さいなどと言うのは、教祖の教えと迷信とを混同した最たるものであります。このお言葉も含めた全部のおさしづをきちんと考え直す必要があるのです。
たすけ一条の心定めをした人の心の中には、いつまでも教祖は存命です。次々と誕生する第二第三の生きた神の社が、陽気づくめの世界を創造して行くのです。
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