中山みき研究ノート3-3 大和神社事件
大和神社事件
初代真柱の『稿本教祖様御伝』(明治31年)には、次の様な記述があります。
『稿本教祖伝』には、棟上げの翌日に山中忠七が招待して大和神社の事件が起こった、と書いてあります。
明治40年以前、つまり、本席が生存中に書き残された資料、あるいは話されていたことには、棟上げの翌日に大和神社の事件が起こった、とは何処にも書いてありません。完成した後に起こった、と書いてあるのです。また、記述そのものがない資料もあります。 その他にもはっきりとした資料があるので、大和神社のことは棟上げの時とは全く別な事件として考えるべき事と思われます。
慶応元年11月11日。 これは真柱宅に残っている大和神社への公式な詫び状の日付です。その数日前の事と思われますが、何かお祝い事をしたいと山中忠七が言い出しました。もちろんこれはつとめ場所の棟上げの翌日ではありません。日付から言えばその一年後です。いつも教祖のお側で一生懸命御用をしている伊蔵達に、何かお礼でもしたいというわけで、家に招待をしたものと思います。『稿本教祖伝』では、「皆が出掛ける時に教祖が、神前では拝をせよ」と言ったことになっていますが、飯降伊蔵が語ったおさしづには、次のように書き残されています。
飯降伊蔵は山中忠七が命じたのだ、と言っているのです。大和神社の前の空き地では、毎年10月23日の大祭の日に太神楽が奉納されることから、この場所で、守屋筑前守が中でお籠りをしているのも知らずに、伊蔵達がかぐらをあげてしまった、というわけです。
これについて、百姓善右衛門(秀司)から市磯相模守に宛てた、 慶応元年11月11日の日付のある御請書が出されています。 市磯というのは大和神社代々の神主の名字ですから、これは神主への詫び状です。それには、ここでかぐらをあげた時の道具が記録されています。
以上の11人分の道具が押収されたのです。これらの道具を持ってかぐらをあげたところ、どの記録を見ても、守屋筑前守がこの人達を咎めた、としてあります。 そして、三日間留め置かれます。
「山中忠七は共に行きし人なり」と、初代真柱は『稿本教祖様御伝』に書いていますが、山中忠七は土地の人であり、守屋神社の神主である守屋筑前守の従姉妹を妻にしています。 山沢良治郎は新泉村の人で、大和神社の信徒総代でもあり、忠七の妻の弟という親戚同士なのです。
守屋筑前守がそれを咎めてみた時、自分の従姉妹の旦那がそこにいたなら、普通は「まぁまぁ、困るじゃないか。早く行ってくれよ」ということで終わりになるはずなのです。ところが、大和神社の神主が文句を言わないのに、守屋筑前守が咎めて、皆捕えられた、ということなのです。秀司もここで捕えられたのですが、奇怪なことに秀司は前川家に釈放方を依頼していません。前川家もこの神社を維持する三昧田村の有力者で、庄屋なのです。 当然、釈放運動をしてもらうべき人なのに、動かないのです。さらに、忠七は一緒に行ったにもかかわらず、捕まっていません。捕まった11人は大豆越村の近くの人が多いのです。しかし、誰も釈放運動に動きません。 どうもこれは頼まなかったようです。
釈放運動をしたのは、伊蔵の知らせを受けた櫟本の庄屋の代理、岸甚七で、これは謝るより道がないと、散々謝ってくれたのでした。秀司は大体こうなることを知っていたのではないかと思われますが、伊蔵にしてみればびっくり仰天のことだったでしょう。
これらの一連のことはどう考えてみても、偶然だとは思えないのです。記録では慶応元年11月11日となっています。また、おさしづでも 「大豆越忠七大工に道で言い付けて…」となっています。それにもかかわらず本席飯降伊蔵が亡くなった後の文書では、ほとんどが棟上げの翌日か当日、あるいは普請中にこの事件が起こったとして、熱心な人が脱落してしまったからお金が寄らず借金が出来て困った、という話になっているのです。これでは作為が余りにもはっきりしすぎます。
この結果、守屋筑前守にこかんの営業許可の免許証が取り上げられ、 こかんは「いかなんだらよかったのに」という言葉を出したと伝えられています。それから2年後の慶応3年に、守屋筑前守の斡旋で秀司が改めて京都の神祇管領の免許を取っています。ついに営業権が秀司に移って行くのです。
したがって、大和神社の事件は、まいり場所の名義・営業権がこかんから秀司に変わる大きな出来事であった、ということができます。
この事件の後、伊蔵は怒って櫟本に帰り、 夜しか教祖のもとに来なくなったのでした。そして、山中忠七も、やはりお屋敷に来にくくなって、ちょっと足が遠のいているのです。この時期には、これがどういう意味をもっていた事件なのかは、皆は分かっていたのではないかと思います。
その後、秀司は天輪王明神の許可を得て、忠七達と共に、教祖が「息の根止めるで」と言われた拝み祈祷の営業を始めるのですが、伊蔵はそれに参画しません。そして、秀司が亡くなるまで、教祖が門屋を建てる、と言えば来て建てるが、その他の時は櫟本に留まり、そこで働き、毎年、年の暮れには教祖やこかんが、不自由のないようにと心を配っていたのです (注=おさしづ 明治34<1901>年5月25日)。
高弟と言われている人達が、教祖と秀司、そのどちらを自分の働く場として選んだか、ということが、後になって大きく道が別れることに繋がっていくのです。
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