中山みき研究ノート3-4 みかぐらうた
みかぐらうた
慶応2年の出来事として最も重要なことは、それまでのおつとめが「なむてんりんおうのみこと」と唱えるだけであったものを、「あしきはらいたすけたまえてんりんおうのみこと」と唱える転輪王のつとめに変えられたことです。これは、悪しき心遣いを払い、酷い心から優しい心になるということがたすけだから、世界一列たすけたいという転輪王の神名を呼び、手で招き、しっかり心に治めてそれに基づいて生きます、と誓うことで、転輪王の心を我が心とする心定めのおつとめなのです。
「あしきはらい」の手は胸三寸の悪しき心を払うと教えられているのです。この時、体全体を払う「たすけ」の手振りになったら意味が変わって、病気や災難といった悪しき事を払って下さいという拝み祈祷に落ちてしまいます。一手違っても生涯の通り方が変わってしまう程重大であると説かれているのは、特にこの部分の手振りについて言われたことです。これは信仰の根本理念にかかわることです。神に願ってたすけてもらうという信仰なのか、それとも、神の心になって難渋をたすけ、陽気づくめの世に立て替えていくという心を定める信仰なのか、という基本がはっきり教えられたのが、この「てんりんおうのつとめ」であったのです。
この頃に、その昔、大和一帯に祈祷の許認可権を持っていたのは松尾寺であったことから、その末寺である小泉村不動院の人達が「松尾寺の許可を得たのか」と言ってお屋敷に来るという事件がありました。これは、庄屋敷に行けばとにかくたすかると言って人が寄るようになり、教祖が周りの注目を集めるようになって来た、という事を表わしていると思います。おさしづにも、
と、当時の様子が記されていますが、この事件がきっかけとなって「あしきはらいたすけたまえてんりんおうのみこと」というおつとめが作られた、などと一部には伝えられています。特に拝み祈祷 に流れてしまった人達は、教祖の教えの意味をよく考えなかったために、外部からの圧力を払い除けるためにおつとめが作られた、と捉えているのです。しかし、これは全く考え違いと言わざるを得ません。教祖は、今までの信仰の基本にあった、神仏におすがりしてたすけて頂くという考えでは、たすけて欲しい、あるいはご利益が欲しいという人間を大量生産するだけであり、世界だすけには役に立たない、という出発点からこの道を始められているのです。その後、おつとめが変遷してかんろだいづとめが教えられた時も、この基本線は変わる事はありませんでした。
現在ではおさづけにこの言葉と手振りが用いられていますが、これは先ず自分の心を定め、それを介して相手がたすけ一条の心を定める事の役に立って行くことなのです。
慶応3年正月からは十二下りのおうたが教えられています。これは、神の社になった人間がどの様な心構えでどのように生きるかという、言わば生活信条(それまでに教祖がお話し下された事)を一通り理解しているものとしてお教え下さったものです。
十二下りのうち、基本的教理をよく表わしている一下り目と二下り目を次に引用してみましょう。
一下り目、二下り目は、慶応3年の正月にお作りくださったので、「正月」という歌い出しになっています。
一下り目は、正月を農民にとって最も嬉しい豊作にたとえて、真の豊かさは常に正月の心で通ることにあると示されたのです。また、真の豊かさを心に叶えさせてやろうというのが、肥のさづけです。
続いて、「につこりさづけもろたらやれたのもしや」と歌われますが、そのためには「三ニさんざいこころをさだめ」ることが必要です。「さんさい」ではなく、「さんざい」と濁点が打ってあり、散財という意味です。 蓄財すれば豊かになれるという心が今までの常識でした。いわば我身思案文明といえる考え方です。皆はこの考えに基づいて相争っていたのです。
これに対して、教祖は、散財の心を定める処に「四ッよの(ん) なか」と、真の豊かさがある事を 簡潔にお示し下されました。「よんなか」とは大和の方言で、豊作や豊かさを表す言葉です。 これが、 教祖がみかぐらうたによってお示し下された新しい世界観であり、見事なまでの価値観の転換であります。
蓄財すれば、どんなに豊かな者でも相争い、人と人の間はギスギスしたものになってしまいます。百人分の食糧があっても、倉庫にしまい込み「これは私の物」と鍵を閉める者がいれば一人の持ち物となり、飢饉などで大勢の人が餓死するような事態になっても、それは何の役にも立ちません。食べてもらうという食糧本来の働きが失われ、食糧は死んでしまうのです。これはまさに死蔵です。
「五ッりをふく」とは、互いたすけ合いの真理が芽吹き現われて来るということですが、この時の踊りの手振りは、体の前で六角形を描く動作であり、この当時、すでに、かんろだいの形が構想され、 その上で十二下りのお歌を作られたことがうかがわれます。
散財の心を定めてたすけ合うことは周りに無性に陽気ぐらしを及ぼすものであり、その心で「七ッなにかにつくりとるなら」、つまり、それぞれの仕事や生産に当たるならば、「ハッやまとハほうねんや」と、その人達の場所は豊かになる、と教えられています。 さらに、「九ッここまでついてこい」と、早くこの心境になってくれ、と急き込まれ、そうすれば「十ドとりめがさだまりた」と、陽気づくめという収穫量が定まるのだと記されています。
これは、豊作という具体的な事柄に例えて、真の豊かさを持った陽気ぐらしを生み出すための心を表現されたものであります。いくら物の量があっても、奪い合う心があれば陽気ぐらしは難しいのです。
二下り目では「真の治まり」ということをお教え下さっています。 初めの「とん/\とん」は正月の目出度さを表わす手振りです。 続いて、「三ッみにつく」とは、このおつとめが表わす理合いを身に付けて生きるということで、「四ッよなほり」と、世の中は互いたすけ合いの世界に変わって行くのです。「ニッふしぎなふしん」とたとえられる世直しに取りかかれば、その時から勇めるようになると歌われています。
「五ッいづれもつきくるならば 六ッむほんのねえをきらふ」、これは、おつとめで教えた、互いたすけ合いの心で生きれば一切の争いの原因は消えてしまう、ということです。また、「七ッなんじふをすくひあぐれバ ハッやまひのねをきらふ」とあります。
たすけ合う心になれば宇宙の真理や人間の本性に沿った生き方になって行き、個人の段階では、心の悩みが解け、それが原因となっていた体の病気も回復して行くのです。さらに、人と人との間も正されて、家庭の中の歪みが解消され、犯罪や貧富の差といった社会の悩みも正されていくのです。そして、我身思案がなくなれば、戦争という、世界中を巻き込む病や、金儲けのために自然を破壊して行くといった地球の病も正して行くことが出来るのです。これが真の治まりである、と教えられているのです。
それまでの社会の常識では、統治は力をもってするものでした。為政者は一つの政策を掲げ、それに服従させることによって治めていたのです。「治める」とは人の心を支配して、他の考え方に動かされないように押え込むことであったのです。さらには、何々天皇の御世、または何代将軍の御世などと、ある時代をその時の支配者の名を以って語るような考え方を当然のこととしていました。
教祖は、難渋を救い上げるという心が、一切の世の歪みを正し、真の治まり、ところの治まりを生み出す、と教えられ、統治する、あるいは治めるということの根本理念を改められているのです。 それが、一下り目、二下り目に簡単な形でお教え頂いているのです。
以下、各下りは数え歌の形で、一つの理念を分かりやすく示されています。 慶応3年という年は、お道の教理が整い、大きく世直しに動き出す時ということが出来ると思います。
みかぐらうたは教祖やこかんによって寄り来る人々に教えられ、少しずつ手振りが付けられて行きました。教祖はお歌の理合いを説明され、「この理をどのように手振りで表わしたらよいか、やってごらん」と人々に試みさせておられます。 仲田儀三郎や村田幸右衛門、辻忠作などが「これでどうやろか」とやってみるのを、教祖が「もっとこうしたら、正しい意味が表わせるやろう」と手直しをされ、段々と作り上げられて行ったという事が伝えられています。
節を付け、手振りを付けられたことは、みかぐらうたの意味を良く理解させ、悟り違いをなくし、 心構えを強固にして、自らの生活の中に生かしたり、あるいは人に伝えていくという点で非常に優れた方法であります。
手振りを付けることは、お歌を身振り語に翻訳することでもあります。 幕末の大和弁で語られただけならば、言葉の変遷によって、意味が変わってしまうということもありますが、身振り語に翻訳されていることで、勝手な解釈に流れることを止めておられるのです。 逆に身振りを勝手に解釈する事は言葉の方が止めています。
例えば、日本と英語圏の国との間に国際条約が結ばれる時には、先ず日本語と英語の条文が作られますが、さらにフランス語にも翻訳されて、勝手な解釈を制限するという方法が今でもとられています。翻訳するということは、意味をはっきりさせることにもなるのです。
3-3 大和神社事件 ←
第3章 教祖の道と応法の道
→ 3-5 天輪王明神
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?