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中山みき研究ノート4-4 お屋敷以外のちば
この時代に、おつとめに関して、重要なことが伝えられています。
17年1月30日に、教祖が諸井国三郎講元に、遠州に於いておつとめをすることを許されている事実があるのです。山名大教会の『初代会長夫妻自伝』には次のように記されています。
明治17年1月30日である。御教祖の前には高井猶吉氏、井筒梅次郎氏、諸井講元の3名の者が襟を正して端座してゐた。此時、井筒氏は恭々しく手を仕へて、御願いの趣を申上げた。
『神様へ恐入ります御願ひで御座りますが、遠州では郡長とも懇意でござりまして、話しの上、十二下りお立ち勤めが出来ます故、御神楽道具をお許し願ひ度う御座ります』
3人の方々は手を仕へたまゝ頭を下げてゐた。
稍ゝ暫くの間、御教祖は静として在られたが、軈て、
『さあ/\許す/\。 私が許すでない。神が許すのやで』
とお言葉が下ったのであった。
この時の、「私が許すでない、神が許すのや」という言葉は、教祖は自らが神の社であるという立場をとっておられることを示しています。
31日に諸井国三郎は井筒梅次郎と同道で大阪に出て、梅谷四郎兵衛方へ赴き、
『お面』と御神楽道具一式の調整方を同氏に依頼した処、梅谷氏も『前例のない珍しいこと』 と非常に喜ばれて早速快諾された。
との記載があります。
明治17年6月24日には、お道具が遠州に届きました。翌7月から毎月、大和の中山氏の屋敷以外のところで教祖のお許しを頂いて、お面をつけてかんろだいづとめが行なわれていたのです。
これは、お屋敷がおつとめをしない月でも、遠州山名郡では、22年1月まで、休むことなくつとめられたのですが、22年に諸井講社が山名分教会を設置した時に、今まで許されていたのが止められてしまいました。
明治21年に神道天理教会本部が設立され、その年から郡山を皮切りに教会が設置されました。教会設置はおつとめを行なうために取った便法であるということから、当然、おつとめを行うものとして各教会はお面を注文しています。
しかし、神道教会の性質を表わしている「天理教会所設置御願」(明治21<1883>年)には、みかぐらうたもおふでさきも中山みきという名前も出ていません。それに代わって、天皇家の先祖を神として拝することや三条の教憲(注=三条の教憲 <教則> 第一條 敬神愛国ノ旨ヲ體スヘキ事 第二條 天理人道ヲ明ニスヘキ事 第三條 皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシム可キ事。 明治6年(1873) 教部省。 『天理教事典』 382~383頁。『中山真之亮伝』127頁)を教えることしか書いてないのです。この神道教会は、天皇制教義を教える教会として発足してしまったのです。そこで本席は、各教会でのかぐらづとめを禁止された(注=おさしづ 明治22 <1889>年3月31日)のです。
これは今、間違って理解されております。かぐらづとめが、本部に許されて一般教会に許されないという受け取り方は間違いです。かんろだいを中心に互いたすけ合いを教えるぢばに許したのであって、神道天理教会本部には許していないのです。それが、ぢば一つの理と言う意味です。
神道教会には許さないというので、郡山、兵神がせっかくお面を作ったのに使えません。山名も今まで許されているのだからと、改めて願い出たところ、禁止された(注=おさしづ 明治22<1889>年4月24日)のです。こういう事実からも、おつとめをする場所が大和の中山氏の地内だけというのは誤りで、教祖の時には、そんな教理ではなかったのです。国々処々で正しくおつとめを行なって世直しをしてくれというのが教祖の思いであったのです。みかぐらうたの九下り目にも、
八ッ やまのなかでもあちこちと
てんりんわうのつとめする
九ッ ここでつとめをしていれど
むねのわかりたものはない
と教えられているように、おつとめは場所と人数と道具立てが大切なのではなく、正しい道のりを説き、正しい心定めが行われることが大切なのです。
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