
中山みき研究ノート3-15 蒸風呂、宿屋の営業
明治9年から10年のことについて、『稿本教祖伝』には次のように述べられています。
年が明けると明治9年。絶え間なく鋭い監視の目を注いで居た当局の取締りが、一段と厳重になったので、おそばの人々は、多くの人々が寄って来ても、警察沙汰にならずに済む工夫は無いものか、と、智恵を絞った結果、風呂と宿屋の鑑札を受けようという事になった。が、この時、教祖は、
「親神が途中で退く。」
と、厳しくお止めになった。しかし、このまゝにして置けば、教祖に迷惑のかゝるのは火を睹るよりも明らかである。 戸主としての責任上、又、子として親を思う真心から、 秀司は、我が身どうなってもとの思いで、春の初め頃、堺県へ出掛けて許可を得た。お供したのは、桝井伊三郎であった。
しかし、このような人間思案は、決して親神の思召に添う所以ではない。
この年、8月17日(陰暦6月28日)には、大和国小坂の松田利平の願いによって、 辻忠作、仲田儀三郎、桝井伊三郎等の人々が、雨乞に出張した。
この年には、河内国の板倉槌三郎、大和国園原村の上田嘉治郎、その子ナライト等が、信仰し始めた。
翌明治10年には、年の初めから、教祖自ら三曲の鳴物を教えられた。最初にお教え頂いたのは、琴は辻とめぎく、三味線は飯降よしゑ、胡弓は上田ナライト、控は増井とみゑであった。
明治10年2月5日(陰暦、9年12月23日)、たまへが、秀司の一子として平等寺村で生まれた。
このたびのはらみているをうちなるわ
なんとをもふてまちているやら (七 65)
こればかり人なみやとハをもうなよ
なんでも月日ゑらいをもわく (七 66)
なわたまへはやくみたいとをもうなら
月日をしへるてゑをしいかり (七 72)
たまへの誕生は、かねてから思召を述べて、待ち望んで居られた処である。教祖は、西尾ゆき等を供として、親しく平等寺村の小東家へ赴かれ、嫡孫の出生を祝われた。
この年5月14日(陰暦4月2日)には、丹波市村事務所の澤田義太郎が、お屋敷へやって来て、神前の物を封印した。秀司が、平等寺村の小東家へ行って不在中の出来事である。
つゞ いて、5月21日(陰暦4月9日)、奈良警察署から秀司宛に召喚状が来た。召喚に応じて出頭した秀司は、40日間留め置かれた上、罰金に処せられ、帰って来たのは、6月29日(陰暦5月19日)であった。その理由は、杉本村の宮地某が、ひそかに七草の薬を作り、これを、秀司から貰ったものである。と、警察署へ、誣告した為である。
ここには秀司が風呂を作って明治9年から営業していたことが出ています。 また、宿屋も作ったと出ています。さらにこの時期には、秀司が40日間、警察に捕えられたとあります。教祖が人を集めるから、秀司が捕えられたのだという言い方になっていますが、正式な風呂と宿屋の許可証の日付を見ると、事情は違っていたようです。
蒸風呂の営業は、明治11年3月27日付けで許可になり、宿屋は、明治13年3月に堺県から出された営業免許の鑑札が中山家に残っています(注=『復元』37号、193~196頁。櫟104)。
正式許可が蒸風呂が11年、宿屋が13年であれば、10年(一部資料によれば9年)に秀司が40日間も捕えられたのは、今でいえば無許可営業の罪と、そこで得た収入を報告しなかった脱税の罪を問われたということではないかと思われます。
40日間も警察に捕えられて帰って来た秀司は、「信仰は小始末にしてくれ、目立たないようにしてくれ」と人々に言っています(注=諸井政一 『正文遺韻』74~76頁〈山名大教会〉1937年刊。櫟105)。教祖の傍へ来る人達の、真理を理解して心を入れ替え、世直しをしていこうという働きは、秀司にとっては警察の目が光る危険で迷惑なことでした。教祖の所に来た大勢の人がお金を払って、営業が成り立てばそれで十分なのです。
お屋敷でのおつとめ練習は秀司が止めるからというので、前裁村の村田幸右衛門宅に、仲田儀三郎がわざわざ出向き、その地域の人を集めておてふりの練習をしたことがありましたが、それを聞きつけた秀司が悪い足を引きずって、止めに行ったという話が伝わっています。
3-14 男児誕生 ←
第3章 教祖の道と応法の道
→ 3-16 雨乞いづとめ