中山みき研究ノート2-8 神名流し
神名流し
こかんの大阪布教については、大きな問題があり、当時の中山家の情勢を知るのには最も適した事柄だと思います。 それで、実際の姿と『稿本教祖伝』に書いてあることの違いを、こかんを軸に考えてみましょう。
とありますが、これは明治31年になってから、書き加えられたものであります。天理王命、という神名が初めて出てきたのは明治18年なのです。まして、天理王命、または天理大神というのは、天皇家の先祖を十柱まとめて呼ぶ神名であります。明治18年以前は、転輪王という仏教系の神名を教祖は使っておられました(注=『復元』30号65頁。「改正論告」明治18<1885>年。櫟18)。それで、「なむ」と言っていたのです。このことだけで、後から付け足したことが分かりますが、さらに明らかにするために、この頃の出来事を他の資料で順に追って行きたいと思います。
善兵衛が亡くなった嘉永6年、秀司の子供が生まれています。おやそという村の小作農の娘との間に出来たおしゅうという女の子です。二十数戸しかない狭い村なので、おやそは村にいられなくなって、その子を自分の母に預けて大阪に出てしまいました。それで、秀司も大阪に出て行くようになりました。
秀司は足が悪いので農業はあまり得意ではありません。30幾つになっていたから、寺小屋で教えるといっても、大した事は出来ず、商売にはなりにくかったのでしょう。それで、おやそのいる大阪に度々足が向いたということです。これは増野道興が書いたこかんの伝記に出ています(注= 増野鼓雪「小寒子略伝」『増野鼓雪全集22』10頁 〈増野鼓雪全集刊行会〉1929年刊。櫟10)。
当時、お屋敷ではこかんに婿をもらって隠居に住まわせ、秀司は母屋に住んでいました。普通、隠居というと老人のことですが、大和では分家した人の所を言います。 当時のお屋敷の図面には母屋の奥の建物に隠居と書いてあります。ここで、こかんと教祖の妹で忍坂村に嫁いだクワの子供で藤助という人が暮らしていたのです。お屋敷には二町歩余りの農地があったので、二人でそれを耕していました。
祖母に引き取られたおしゅう(後に教祖に引き取られる)を残して、秀司はたびたび大阪に行っていましたが、そのうちに、米相場で大失敗をしでかします。前出の警察への上申書では「綿商い、及 び、米商い仕り…」とあります。 綿屋というのが中山家の別名(屋号)であり、綿の仲買いは以前からやっていました。綿は、幕末になると、それまで専売であったものの規制が弛み、組合に入っていなくとも商売が出来る、というまでに開放されて来ました。中山家は綿の組合の名簿に載っていない程の、小さな仲買いでありました。しかし、米の商いをしていた、という事実はありません。上申書の記述は秀司が新たに大阪で米相場に手を出した事を言っているのです。
米相場で失敗した秀司は、その借金が払えなくなりました。相場も正式には、きちんと保証金を積んで、その範囲内でやるから、借金の人質に取られて帰れない、などという事はないのですが、非公式の場合はそんな事も起こります。
中山家では教祖と、こかんの夫の母であるクワが骨を折り、秀司が何とか帰ってこられるだけの金を作ったのです。その金を急いで大阪に持って行かなければなりません。それで、 こかんと夫の藤助、それに藤助の兄弟の改三郎と又吉が付いて行くことになったのです。これは、安政二年、こかん19歳の頃の話です。
大阪に行き、クワの縁者が奉公している醤油屋に泊まり、そこから、こかん達は出掛けていった、という手紙文が残っています。そんなことで、どうにか秀司は帰ることができました。
ところが、大阪の借金はなくなったが、教祖とクワが急いで金を作るためにした借金が、大和に残りました。それで、土地を十年間の年切り質にいれ、その耕作権でまず、いくらかのお金を作り、残りを母屋を売って支払うということになったのです。母屋の取りこぼちです。母屋を売るので、家財道具の置き場がありません。それで、ほんのわずかなお金で良いから、どうか持って行ってくれと、相手の言い値で片っ端から処分をしたのです。このことが、人に施すために行なわれた、ということになっているのです。
後に残ったのは母屋のない中山家です。 帰ってきた秀司は、残った隠居に住み、そこが母屋になったので、こかん夫婦は居る所も耕作する土地もなくなってしまいました。 それで、藤助は忍坂村に帰ることになってしまったのです。
こかんが藤助に惚れ込んでいたのなら一緒に忍坂村に行ったのでしょうが、もし行ったとしても藤助のための田畑が用意されているわけでもありません。また、おとなしくて婿として言うがままに働いている藤助よりも、教祖の世直しの力強い働きの方に惹かれるものがあったので、教祖の側に残って御用をすることになりました。教祖の教えを最も身近に伝える、たった一人の取次人としての人生がここから始まります。17歳から足掛け三年間、藤助と夫婦であった、というのですから、これは 嘉永6年から安政元年、同2年に掛けての3年ということだと思います。
このような事柄が、何故「南無天理王命」と書かれた幟を立てて拍子木を打ち、大阪の町を触れ歩いた、という話になってしまったのでしょうか。
明治31年7月3日という日付で初代真柱は教祖伝草案を書いています。これが『稿本教祖様御伝』となるのですが、これは、明治32年に出された天皇公認の神道教会になるための願書に添付するためのものです。従って教祖が、転輪王という神名で教えていたとは書けません。これでは仏教です。また、立教の時に関係した人が「阿闍梨・理性院聖誉明賢」では、これまた真言宗の分かれということになってしまいます。だから、市兵衛という俗名にして神懸りによる立教を強調し、教祖伝の発端を書き換えてしまったのです。
嘉永6年はペリーが江戸湾に黒船を並べてやってきた年です。この時から、尊皇攘夷の嵐が日本中に広がって行きます。江戸は大騒ぎですが、日本中では未だその嵐が吹き荒れてはいないその年に、いち早く「天理王命」という天皇家の先祖達の神名を幟にして、大阪の町で「天理王命を崇めなさい、天皇家の先祖を崇めなさい」と触れまわって、尊皇攘夷の魁をなした、ということになれば、これは天皇家に対する大変な手柄になります。天皇公認宗教になれば、初代真柱は勅任官待遇の管長閣下になれるのです。初代真柱としては、これは書かなくてはなりません。それで一通り書いてあった教祖伝草稿に、後から小さな字でこかんの大阪布教を書き加えて、改めて綴じ込んだ跡があります。最初に書いた筆の跡とは違うのです。こういう元の資料がそのまま写真版で公開されています (注=『復元』33号)。
天皇崇拝、尊皇攘夷を大阪の町に宣伝をしたことにするためには、実際にこかんが秀司を迎えに行ったのは安政2年のことであっても、二年繰り上げて嘉永6年にしないと意味がないのです。 どうしても、ペリー来航の年である嘉永6年でなければなりません。
教祖伝の中にフィクションが数多くありますが、これはその中の三大フィクションの一つに数えられるのではないかと思います。三大フィクションというのは、立教、こかんの大阪布教、それに大和神社の事件であります。
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