中山みき研究ノート4-6 最後の御苦労
やがて年が改まり、明治19(1886)年を迎えます。
2月18日(陰暦正月15日)。この日は大和では二の正月と言って神詣でをする風習がありました。
お屋敷から三里程南の外山にある心勇講(後の敷島大教会)から300人もの人達がお参りに来ました。これがお道で最初の団体参拝だとも言われています。
それまでも心勇講の白パッチと言われ、真白な揃いのパッチ(股引き)をはいて着物の尻をからげて歩く姿はとても威勢がよかったと言われています。
道の両側にはまだ雪が残っているという寒い日でした。それでも勢いよくお屋敷へ参り、教祖が最もお喜び下さるおつとめをさせて頂きたいと願い出たのです。
しかし、真柱の真之亮は、ここで大勢がおつとめをしたらすぐに警察が来るし、教祖が御苦労下さることになるからと、頑なに断ります。治まらない人々は休憩所になっていた「豆腐屋」の二階に陣取り、熱心な人達が二、三十人、「この宿屋でやるのなら、かまうまい」とおつとめを始めました。その時お屋敷からは山本利三郎が太鼓を持って行き、拍子を取ったと言われています。
おつとめは長いので、これは、たちまち警察の知るところとなり、 櫟本分署から6名の巡査が出張して来ました。信者達はクモの子を散らすように逃げました。足の速い人が三昧田あたりまで行って後を見たら、履き物を懐へ入れて真青な顔で逃げてくる仲間がいます。そこで、ここまで来たら安心と、お互いにその格好を笑い合ったというのです。
しかし、講元の上村吉三郎は逃げることなく、警察に、「これは私の責任です。教祖には関係ありません」と訴え続けたのですが、警察の狙いは無論、教祖にあります。巡査達はお屋敷に駆け込むと、教祖のお居間に飛び込んで行きました。
この時、教祖と、傍でお取次ぎをしていた仲田、桝井が一緒に捕えられ、真之亮は戸主として同道、おひさは付き添いで教祖と共に櫟本分署に来たと伝えられています。しかし、高井直吉の話だと、直吉を初め7人程が一緒に捕えられたということです。
櫟本分署はそれまでにあった丹波市分署と帯解分署を合併して、2月1日に出来たばかりでした。建物は、それまでは油絞りの工場であったものを、櫟本の神田三郎兵衛氏から警察が借り受けたものです。
櫟本は、江戸時代は東大寺領で、税金が安かったことから、瀬戸内海沿岸の菜種を集め、船と荷車で運んできて油を絞っても採算が取れたのです。櫟本は商工業が集まった裕福な場所だったのです。しかし、明治に入ると石油ランプに押されて、油の事業は縮小し、設備が空いていたのでした。
自由民権運動が壊滅した後でも、平等を説く中山みきに目を光らせていた櫟本分署は、警部補1名巡査16名という大きな規模の分署でありました。
教祖は人力車におひさと二人で乗り、他の人は腰縄姿で櫟本まで引かれて来ました。しかし、人々の先頭に立っておつとめをした上村吉三郎は、「おまえは関係ない」と言われて、夕方には追い返されてしまいました。
一同はそのまま暗い所に放り込まれ、取調べは夜中に始まりました。その時、高井直吉などは、私は教導職ですから天皇家の先祖を神と教えておりますと答え、「そうか、それではおまえは帰ってよろしい」とその夜の内に釈放されたようです。
夜中から始まった取調べに警察が最初に出して来たのが、教祖の居間から押収した菊の紋(注=『復元』22号、73頁。櫟50)でした。それを突きつけて、「これはなんだ」と問い詰めます。明治初年から敗戦までは、菊の紋を人民が用いてはならないという法律があったから、これで罪に落とせるというわけです。明治20年1月13日のおさしづの前書には、
とあります。「右三箇条のお尋ね」とは櫟本分署での取調べのことを言っており、「警察のお尋ね」とすれば分かりやすいのだが、おさしづが出版された昭和の初めはすでに治安維持法下にありました。警察の尋問にどう答えましょうか、などという出版物は作れないので「警察」という文字を抜いたのです。櫟本分署ではこの三箇条について、どのような問答があったのでしょう。
まず、「上も我々も同じ魂との仰せ」については、警察は菊の紋を前にして、
「これは生神様である天皇家の紋である。人民が用いてはならない」
というのに対して教祖は、
「天皇陛下も親神の子、私達百姓も親神の子。共に人間であります」
と答えておられます。これは最初の御苦労となった山村御殿における答えと同じなのです。これに続いて、警察は、
「つとめ人衆などと言って天皇陛下の御先祖の神々の御名を用いるとはけしからん」
と言って脅かします。それに対しては、
「天皇陛下が人間なら、その先祖の天照大神、そのまた先祖のくにとこたち、おもたりもまた人間です」
と答え、
「人間はそれぞれの持ち味を生かして補い合いたすけ合って、皆で陽気づくめの世界を創ることを本性とするものだから、このおつとめでは、つとめ人衆にくにとこたち、おもたりという名前を付けて、それぞれの働きを手振りに表わし、互いたすけ合いを教えているのだ」
と、おつとめの理合いを説かれたのです。これは三箇条のうちの「このやしきに道具離型の魂生まれてあるとの仰せ」に相当する部分であり、神名に関する問答がその中心でありました。天皇も人間なら、その先祖も人間だ、というのが教祖の主張です。
続いて、天皇神話で最も重要な部分である「国生み神話や天孫降臨を嘘というのか」と攻撃して来ました。それに対して、教祖は「人間の元初まりは」と語り始め、
「泥海の中から小さな生き物を初め出し、その小さな生き物が親から子、子から孫と命を伝えて生き続け、姿の変遷を経て今日まで来た。だから生き物はたすけ合って暮らさなくてはならない」
という元初まりの真実を明かされ、これがこの世の始まりだと答えられたのです。これは三箇条のうち、「此世界始まりのぢば故天降り、無い人間無い世界を拵え下されたとの仰せ」であります。
最初の取調べが終わり、翌朝には真之亮が釈放されました。教導職だったので帰してもらえたと言われていますが、仲田も桝井も教導職です。真之亮は、天皇を神と説きますと誓って釈放されたので す。
高井直吉などは釈放されると、すぐに天皇も人間だと話しているので、いわば偽装転向ですが、真柱中山真之亮は、その後の生涯を神道管長として皇祖神を天理大神と崇め、天皇を生神様と話したり書いたりして、転向者の悩みを味わい続けるのです。しかし、仲田、桝井の両名は転向を拒んだために檻の中に入れられたと、真之亮は後に書いています。
その檻を法務省の図書館へ問い合わせて再現したものが櫟本分署跡にある組牢です。当時は、丹波市分署と帯解分署から一つずつ持って来てありました。
取調べは三日間続けられ、どうしても説を曲げないことから、首謀者中山みきは12日間の拘留、弟子達は10日間の拘留と定まりました。この間、差し入れに行った辻忠作はそれを次のように書いています。
仲田儀三郎は担がれて釈放され、そのまま寝ついて新暦6月22日に亡くなっているのであり、取調べの厳しさをうかがわせます。
その後、教祖は取調室から街道に面した部屋に移されました。真ん中の部屋に分署長が机を構えて、靴のまま上がり、巡査達は次の間に控えておりました。受付巡査の机は入り口の近くにあったといわれています。冬のことなので素焼きの火鉢を和紙で補強した「ボテボテ」と呼ばれるものを、自分の机の下に入れて各自が暖をとっていました。窓は雨戸一枚で、開ければ風が吹きさらしです。
その部屋では、教祖には薄べり一枚しか与えられていませんでした。しかし、おひさが機転をきかして座布団を二枚抱えて入っていました。教祖はその座蒲団を敷き、終日、西向きに端座されていました。警察ではさらし者にするつもりでしたが、教祖はむしろ心配で寄り来る信徒達にお顔をお向けになっておられたのです。おひさは若い身空なので、街道に背を向け、真綿を背負って寒さをしのいでいたということです。
そういう状況の中でも、教祖は自分を取り調べた巡査にまで「おひさや、お菓子を買うてあげなさい」と言われたり、受付巡査のブリキ(当時は鉄をブリキと言っていた)のランプが夜が明けてもついているのを見て、ふと立って消されたという話が伝えられています。
このような一見のどかな様子も数日で変わりました。教祖はここに来られてから、一度も食事をしておられません。警察での食事が穢れているというのではありません。明治17年に、奈良監獄署に御苦労されたときには、差し入れのものをお食べになっておられます。奈良監獄署の記録では、87歳の教祖の歯は1本であったと記されています。櫟本分署に捕えられたときは89歳です。 したがって、歯は1本か何もなくなっていたかのどちらかです。
年寄りで歯のない教祖に、警察は差し入れ禁止という処置をとったのです。19年頃は、日清戦争のために軍国主義が大いに宣伝されていました。その時代に世界一列兄弟、たすけ合いなどと説く人間は、国の方針に仇なす重罪人と見なされたのです。
警察で支給するのは若者向きの弁当です。三日間も苛酷な取調べを受け、寒い所に放置されているので、体は弱っていました。まして歯のない教祖です。柔らかい食べ物の差し入れを禁止されたからといって、弁当の固いご飯を飲み込んだら命にかかわります。
何とかして教祖に食べ物をと、おひさは自分宛てにお屋敷から柔らかいものを差し入れてもらって、教祖の弁当とすりかえようとしたのです。しかし、監視の目は厳しく、それは取り上げられてしまいました。「せめて、ハッタイ粉なりと」と思うのですが、それさえも教祖のお口には届けることができませんでした。教祖は梶本の家から運ばれる鉄瓶の白湯を口にするだけの完全な断食になってしまいました。
警察は教祖が赤衣を着ているから人が寄るとして、別の着物に換えるように要求してきました。お屋敷では大急ぎで綿のたっぷり入った黒紋付の着物と羽織を仕立て、教祖を少しでも寒さからお守りしたいという願いを込めて差し入れました。
夜になると、畳も布団も毛布もないので、板の間に座蒲団を二枚並べ、教祖の下駄におひさの帯を巻いて枕にしました。そして、差し入れてもらった黒紋付きのまま、教祖は座蒲団の上に横になり、その上に綿入れの羽織りを脱いでは、それを掛け布団のようにかけてお休み頂いたのです。
しかし、これとて、真冬の寒さをしのぐにはあまりにも甲斐のないものでした。おひさは着物の袖で教祖のお顔を被うようにして、自分の体の温もりで教祖を寒さから守ったのです。それでも、日に日に教祖は衰弱して行きました。自分がもしも眠りこけてしまったら、大変なことになるというので、「私はこの間、夜は12日間一睡もしなかった」 とおひさは39年も経って弾圧がゆるくなってから話しています。
この年は30年来の寒波で、拘留の間に二度も雪が降ったと伝えられています。その中で10日が過ぎて弟子二人が釈放されましたが、この時すでに仲田儀三郎は担がれて帰ったといわれています。
その後、雪が五寸も積もっているという夜中に、教祖は「一節一節芽が出る…」とつぶやくようにいわれました。これを聞いた巡査は、いくら弾圧しても屈しないぞという不敵な言葉と受け取り、「婆さん、だまれ!」と怒鳴りつけました。
おひさは慌てて、「おばん、おばん」と止めました。祖母なので「おばん」と呼んでいたのです。そのとき教祖は、「ここにおばんはおらん、神様が言うてはんのや」と厳しい言葉を下さいました。これは巡査より怖かったとおひさは後に語っています。
しかし、巡査はこの声を聞いて、余計にいきり立ち、10日以上も断食を強いられている89歳の教祖を、庭の向こうの井戸端に引き据えました。しかも雪の上です。
「頭を冷やしてやる」とばかり、水をかけようとしましたが、おひさは巡査にとりすがって、水はかけさせなかったと語っています。
その当時、清水与之助は神田家に頼み込んで従業員になりすまし、分署に続く蔵の陰から中の様子をうかがっていたということです。また、神田家の番頭達も中の状況を伝えています。それによるとある人は頭から水をかけたと言い、またある人は綿入れの衿上を開けて、ひしゃくで背中に水を流し込んだと伝えています。かけた、かけないは問題になりません。警察はいずれにしても世界一列兄弟、平らな世の中などと説く者は生かしておくこともならぬという態度であったのです。これで一時に教祖は衰弱の度を加えられました。
3月1日(陰暦正月26日)、教祖ご自身の釈放の日となりました。大勢の人達が教祖をお迎えに櫟本分署の前に押しかけました。
「釈放」の声と共に、一番に飛び込んだのは富森竹松という布教師でした。この人は地元の呉服屋の息子で、子供の頃から教祖と接しており、後に泉田藤吉達と布教に歩いています。飛び込んでみると、事もあろうに教祖は、昼間だというのに押入れに寝ておられました。おひさが風を避けるために押入れに移して、その上に被いかぶさるようにしていたのです。もちろん、立てません。その教祖を竹松は抱え上げるようにして背中に背負い、人力車に運んだのです。
しかし、このご身上ではとうていお屋敷までは無理だというので、200メートルほど北にある梶本の家でお休み頂こうとしましたが、巡査が「他所へ行ってはならぬ。我々がついて行く」とそれを許しません。竹松は教祖の乗った人力車の背中を抱えるようにして泣く泣くお屋敷までお供したのです。
竹松は後に和爾分教会の初代会長となったのですが、櫟本分署でのことが忘れられず、70を越えた年になっても、分署跡に来ては、いつも、「教祖のご苦労は孫と日なたぼっこをしているような生やさしいものではない。命にかかわる迫害の中でも、難渋だすけやむにやまれんとおっしゃったのだ」と、涙ながらに語っていたということです。
ようやくの思いで弱り切った教祖をお屋敷にお迎えしたのですが、それにもかかわらず、この日に力強いお仕込みを下さっています。 それを梅谷四郎兵衛は次のように伝えております。
お話はもっと長かったと思われますが、その意味するところは、「こうして外に出てひながたを示すのは本当の善悪を教えるためなのだ。 世界の人は99人までが上に仕えろ、強い者につけと言い、これを忠義だ、孝行だ、善だと教えている。けれども難渋の人をたすけて平らな世の中に立て替えるのが本当の善なのだ。今は厳しくとも将来は必ず明るくなる。それがもう見えてある」ということです。
しかし、このお仕込みをして下さった教祖も、お屋敷にお帰りになったら床についたまま面会謝絶です。
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