藍から白む⑥ 創作大賞2024応募作品
アイミ episode2
同伴前にクレドのカウンターに寄ると、いつも担当してくれるお姉さんは不在のようだった。
接客してくれた30手前くらいの美容部員は美人で、黒髪のタイトなシニヨンと斜めに流した前髪は隙が無く、クールタイプであろう彼女の顔立ちをより一層引き立てている。
Xでバズっていた化粧下地のテクスチャーについて話し込んでいる間、女の視線から嫉妬や羨望とはまた違う、何かを感じた。
多分、あたしのことを知っている。
snsでも、ネット媒体でも、あたしの顔は割れ過ぎている。
だけど、この違和感はなんだ。
さり気なくあたしの肌とパーツを何度も往復するその視線には、興奮も敵意も感じられない。
なんとなく、気味が悪かった。
表情筋の動き方と目線、まばたき、瞳孔、汗、姿勢、手や足の位置、動き。
元からの素質か、職業病なのか、あたしは一瞬で相手の感情を読み取れる。
小学5年生あたりから、女の目の奥に潜む醜い感情に気付いた。
祖母からも同級生からも、時には教師からも、それを感じた。
その度に自分を責め、傷付き、どう生きていけば良いのか分からなくなった。
小学6年生で生理が来て、胸が膨らみだすと、元々多かった祖母の嫌味はさらに増していった。
祖母の機嫌が悪い日は一階に近寄るのを避け、物音を立てずに過ごした。
月に3回ほど、説教をされない、正座もさせられない、奇跡のような日があった。
そんな日は積極的に洗濯や食器洗いの手伝いをして、唾を飛ばしながら炸裂する悪口にも丁度良い相槌を打ち、微笑みと反省の表情を使い分け、祖母を肯定し、わざとらしくない程度に褒め、必要の無い謝罪も混ぜ、感謝し、媚びた。
ある日学校から帰ると、生理用品とスポーツブラが自分の部屋に放り投げられていた。
祖母の機嫌が良い日に頼んだものだった。
ドン、ドン、と不機嫌そうに野菜を切っている祖母にお礼を言うと、「男と付き合うなよ」と吐き捨てられ、睨まれた。
中学生になると、女達の目線はさらに強まり、身に覚えのない噂と悪口も追加されていった。
なんであたしが。
あたしは何もしていないのに。
そんな感情はとうの昔に無くなった。
全てあたしのせいで、全てあたしが悪い。
解決しない問題に悩み続けたり、誰かを憎むよりも、そんな思考回路でやり過ごす方が楽だった。
同じグループの友達以外とはなるべく喋らず、目線を合わさず、猫背とストレートネックを極め、目立たないように、とにかく平和に過ごせるように徹底した。
それなのに、隣の席の男子は空気を読まずに声をかけてくるし、ラインのIDを聞いてくる男子や、告白してくる同級生や先輩がいて、あたしが命懸けで積み上げる平和はことごとく粉々に砕かれていった。
罰ゲームかネタか何かで、彼らはあたしに声をかけるんだろう。
一度も処理したことの無い眉毛に、狸のような目、低い鼻、タラコのような厚い唇、丸い顔、くせ毛。
イモでしかない。
祖母にも友達にも、可愛いなんて1度も言われたことがない。
お願いだから放っておいて。
もう誰も、あたしを見ないで。
「武田さんまつ毛長!いーなー。メイクしたら絶対可愛いと思うんだけど。ちょっと後でビューラーして良い?」
一軍の女子グループに属している佐々木さんに、体育後の更衣室で急に話しかけられた。
意味がわからず、どんな言葉を返せば良いかわからず、全身から汗が噴き出すのを感じた。
「いや、や、全然です、大丈夫です」
必死に手と首をブンブンと振り、やっとの声で絞り出した声は裏返った。
後ろの方で小さく誰か吹き出し、手を叩いた。
「タレ目羨ましー。二重幅広いし。あー整形してー。武田さんメイクして髪とか巻いたら良いのに。絶対可愛い」
佐々木さんは腕を組みながらあたしの顔をまじまじと見つめた。
汗は止まらず、下を向いて首を振り続けた。
後ろの方で、一軍女子達が小声で何かを話している。
今すぐ消えてしまいたかった。
脳天に雷が落ちますように、隕石が直撃しますように、居眠り運転のトラックが突っ込んできますように、学校に侵入してきた殺人鬼があたしに発砲しますように。
祈りが何重にもループした。
小声から突如爆笑に変わった女子達の笑い声は、あたしの背中を滅多刺しに、心臓を貫いた。
「あのーー……。すみません、もしかして、武田さん?」
美容部員が発した言葉に、カッと顔が熱くなるのがわかった。
瞬間的におでことこめかみの筋肉を緩ませ、何の感情も無い表情をつくり、「武田…?」と聞き返す。
1,5秒ほどの長い長い沈黙の後、「あっすみません!知り合いに似てて。失礼しました」と、女は焦ったように謝罪した。
女は何事も無かったかのように、よく喋った。
新作のパウダーがどうの、肌タイプがどうの、成分がどうの、毛穴の落ち方がどうのと、それはそれは的確な説明だった。
彼女に負けないくらい、あたしもよく喋り、笑い、購入を悩む演技をした。
冗談と自虐を交えたアドバイス、絶妙に使い分ける声色と表情、自社の商品を正直に批判してしまうところも、完璧だった。
彼女はプロだ。
自分の売り方を熟知している。
ラウンジ向きだ。
いや、銀座なんかでもすぐに売れるだろう。
「お支払い方法はどのようにいたしますか?」
女がカルトンを持ちながら、微笑む。
「現金でお願いします」
「かしこまりました。当店のカードはお持ちでしょうか?」
「あー、持ってないんですけど、今日急ぎで。また今度作ります」
精算に向かった女の背中を見て、やっと呼吸ができた。
激しい動悸はおさまらず、じっとりと汗をかいた背中にインナーが張り付いていた。
買う予定の無かったパウダーとチークのせいで、予算は大幅にオーバーした。
普段現金をほとんど持ち歩かないので、財布の中身は数千円になってしまった。
本当はクレカを使いたかった。
ここのカードだって持っている。
確定申告用の領収書をもらいたかった。
でも、それは絶対にできなかった。
深々と頭を下げる女に満面の笑みでお礼を言い、デパートを出た。
もうここの店舗には二度と来られない。
佐々木実花がいる。
仕事前に1番寄りやすい店舗だったのに。
担当のお姉さんが好きだったのに。
最悪な日だ。
汗を含んだインナーのせいでとても寒く、冷房の効いたタクシーは地獄だった。
歌舞伎町の外れにあるビル前には、待ち合わせ時間の5分前に到着した。
周さんはまだ来ていない。
うるさい室外換気扇、酔っぱらいの呼応、不快な湿度、新宿特有の生臭い匂いが、優しくあたしを浄化していく。
あたしの居場所は、ここだ。
妊娠後期かと思うほど半円に突き出た腹が、ベルトの上に乗っている。
シャツのボタンは今この瞬間にも爆ぜそうで、被弾する恐怖にハラハラと怯えた。
「可愛いでしょ?俺の彼女」
日本酒を口に運ぶ周さんは、上機嫌だった。
烏の足跡のようなシワが刻まれた目尻は下がりきり、その横に茶色い大きなシミが浮き出ている。
「お綺麗です!」
大将が酢飯をにぎりながら、力強く言葉を返す。
寿司下駄に乗せられた北海道産のウニ。
オレンジよりの黄色は、濁りがなく、鮮やか。
それはとても濃厚で、甘くて、絶品だった。
ミョウバンを使用し、鮮度が落ちたウニはもはや食べ物の定義から外れている。
あれはただの、苦い粘土だ。
目を瞑り、うなずきながら「幸せ〜」と呟くと、周さんは満足そうな笑みを浮かべた。
「アイミ、ホタテもすごいぞ」
周さんがドヤ顔で勧める帆立は、サク、と噛み切れた。
初めての食感に驚き、目を見開いて周さんを見つめる。
「何この食感!?食べたことない!なんでー!?美味しい〜」
「美味いだろ?大将、これも道産だよね?」
「はい!知床のものです!」
テレビで何度か聞いたことがあるその地名は、どこにあるのかわからなかった。
「知床って世界遺産だっけ?熊いっぱいいるとこ?」
「運転してたら普通にそこらへんに熊いるよ。知床なあ〜。北海道で1番海鮮美味いんじゃない?」
「周さんが言うなら間違い無いねー♡北海道行きたくなるー」
俺来月出張で行くよ。いいだろ?一緒に行く?チケット取ってやるよ。温泉最高だぞー!遊ぶとこ何もないけどな!おし、客室露天風呂付きの部屋取るか!ガハハ!
一人で喋り、一人で笑っている周さんは、水のように日本酒を煽っていく。
酒癖は悪いし、触るし、自慢ばかりだし、偉そう。
ヘルプの女の子にも横暴で、悪態をついて泣かせたこともある。
でも、太い。
気持ち良く大金を使う。
この手の客はミーハーで、見栄っ張りだ。
躊躇無く高級シャンパンをポンポン入れる。
周さん以外にも、中国のお客様をそこそこ見てきたが、日本人とは全然違うと感じる。
ハングリー精神がすごくて、タフ。
自己主張が激しく、圧がある。
メンタルもそうだが、色んな面で、皆強い。
周さんはとても頭が良いし、飲み慣れすぎている。
あたしがバカみたいにヘラヘラしているのも、媚びも、嘘も、全て見抜いている。
見抜いた上で楽しんでいる。
悪趣味な金持ちの遊びだ。
散々金を使い、楽しそうにし、ある日急に連絡が返ってこなくなり、切れる。
店ではほとんどお酒を飲まないが、周さんの席では、飲む。
飲まないとキツイ。
あたしを見透かし、泳がせ、試している。
周さんといると、とても緊張して、疲弊する。
ベロベロに酔ったあたしを見て、周さんはやっと満足そうにする。
今日の予定は5組。
常連のお客様の団体予約も入っている。
1時間も放置すると、周さんは機嫌が悪くなり、帰ってしまうだろう。
締め日まであと4日。
先月はまさかのナンバー3に落ちた。
ヘマをしなければ、今日の売り上げは100を超えるだろう。
大将と周さんの談笑にニコニコと相槌を打ちながら、席につく時間配分を綿密に計算した。
周さんが頼んだ日本酒はとても臭くて、顔を近づけるだけで胃液が逆流してきた。
周さんがあたしの横顔を見つめている。
あたしの頬に穴を開け、抉り、犯す。
この人は、目で人を喰う。
早く、今すぐに酔わなければいけない。
「何ー?そんなにアイミ可愛い?」
頭の悪い口調で周さんに笑いかけ、グラスの残りを勢い良く喉に流し込んだ。
#創作大賞2024 #恋愛小説部門
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