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JAM

「溶ける」

 2週間前、セックスしている最中に由紀子が言った。意味がわからなかったので後からどういうことだったのか聞いてみたら「そんなことは今言うもんじゃない」と笑われた。

 由紀子は時々うちにセックスをしに来るとても綺麗な女の子だ。初めて見た時、西永福のライブハウスの端っこで、長いまつ毛と真っ黒なロングヘアが飛び切り目立っていた。細い体にまとったひらひらの黒いスカートが、まるで由紀子のために仕立てられたかのようによく似合っていた。僕は心の中で「都会の女だ」と、呟いたことを覚えている。

 上京して6年。僕は毎晩ギターをかき鳴らして、胸いっぱいに抱えた焦燥感や世間への怒りを歌にしているうちに、いつの間にか武道館に立っていた。ファンの声援を身体中に浴び、日々生きている実感を得る……なんてうまいことには、ならなかった。

 最初の方こそギターをかき鳴らしていたものの、もっとうまいやつがすぐに現れて、なぜか今はベースを弾いている。今日も僕はベースを抱えて、小さなライブハウスでのイベントの後、うだつの上がらないバンドメンバーと一緒に安い居酒屋でくだらない話をしている。

「最近なんか新しいウイルス流行ってるべ」

 ドラムの佐助が言った。佐助は千葉の山奥から出てきて、もう7年。長袖のシャツには、黒地にテカテカの白い文字で「Lost you」なんて書かれている。うだつのあがらなさでいくと、僕をはるかに上回っていると思う。

「やばいよな、SFかって感じ」
「本当そんな感じだよな。感染したやつの体験記読んだけど、インフルエンザよりもっともっときちーって」

 佐助はこういう風に、意外と真面目なところがある。僕は生ビールをキュッと飲んで、言葉を返す。

「やばいやつじゃん」
「呼吸器が最初にやられるらしいから、ハルトお前マジ気を付けろよ」
「おー、いっつも気を付けてるわ」

 ハルトが、タバコの煙をフワーっと吐き出した。焼き鳥と焼き魚の上に、煙が降り注ぐ。2本で290円の焼き鳥と、ひとつ290円の焼き魚。値段の割に美味しい事が、僕は気に入っていた。「煙は食べ物の上に吐かないで」と言ってあるのに、ハルトは「わかったわかった」と返事をするばかりで、ちっとも守ってはくれない。吐かれた煙は、テーブルをつたって、宙を舞う。

 ハルトは1年前に僕たちのバンドに入った新しいボーカルだ。音楽のセンスだけじゃなく服のセンスまでかっこよくって、今風の顔立ちをしている。女の子はみんな、ハルトの事が大好きだ。加入して数日も経たないうちに、ハルトはあっという間にバンドの中で一番人気があるメンバーになった。「めちゃくちゃ歌がうまいというわけではないけれど、見たら絶対にわかる、こいつの歌には花がある。俺たちは売れる」佐助が何度も言っていた。最初にハルトを交えてステージに立ったとき、確かに客席に稲妻が走ったのが、僕にもわかった。

 それから僕は、由紀子とハルトがずっと前からセックスしていることを知っている。

「インフルエンザ、気を付けろよ~!」

 居酒屋から出て駅の方へと走りながら、大げさに手をあげて佐助が言った。ビールを飲みすぎたのか、頬から耳の後ろまで頭全部が真っ赤っかだ。リュックの横からはみ出したドラムスティックは、ボロボロというか、カサカサになっている。ひとりだけ東京の東の方に住んでいるので、佐助の終電は早い。

「インフルエンザより、きついんじゃなかったっけ」
「あいつ、自分で言った事忘れてない?」
「ウケる」

 東京の冬は、なぜだかとても寒いと僕は思う。気温的にはもっと寒いはずの地元よりもずっと寒く感じるのだ。地元の冬は、寒いけれど空気がシンと透き通っている。出歩いている人が少ないからなのだろうか。そのおかげで地元の冬は、東京ほど寒いと感じる事はない……ような気がする。

 記憶が曖昧なのは、長く地元に帰っていないからというだけではない。今年の冬は東京もどうしてかあまり寒くなくて、地元のことだけじゃなく、東京のこともよくわからなくなってきている。

「これから雪が降るから、気を付けてね」

 新しいウイルスとやらを恐れて、政府が外出自粛を要請中だというのに、突然やってきた由紀子がそう言った。2週間以上、連絡もしないで一体何をやっていたんだろう。こんなに暖かいのに、雪が降ると冗談をいうなんて、相変わらず由紀子の気持ちはわからない。

「地元に帰る事になったんよ」
「どうして?」
「うち実家、居酒屋やから。手伝おうと思って」
「今帰ったら危ないよ」
「でも今帰らなかったら、お父さんが危ないから。人件費とか払ってられる状況じゃないんよね」
「マジかぁ」

 僕の間抜けな回答を聞いて、由紀子は目を細めて笑った。いつも着ていた真っ黒な服を脱いで、ベージュのコートを羽織っていた。

「溶けそうだと、思ったんよ」
「何が」
「あんたと一緒におると。好きだったんよ」

 僕は由紀子の突然の言葉に心臓が飛び出そうになった。

「ごめん」

 自然と出てきた僕の言葉を聞いて、由紀子はもう一度目を細めた。目の端から零れていく涙が、酷く美しかった。どうしてか耳の奥で、佐助の声が聞こえた気がした。

「残念だけど、僕にはまだ歌が必要なんだ」

 言葉にしたら何故だか僕の目の端からも涙が零れた。顎まで伝った涙を拭いて、もう一度口を開く。

「僕も君が好きだった」
「そんなことは、今言うもんじゃない」

 そう言った由紀子は、今まで見た由紀子の中で一番美しかった。どうしてか僕の頭の中にはTHE YELLOW MONKEYの『JAM』が繰り返し爆音で流れていた。

バイバイ、由紀子。大事に出来なくて、ごめん。


JAM(さかな、ジャム、溶ける)

あとがき

むらさきさんとの交換box第三弾でした! どうしても頭の中に流れ続けるイエモンの曲『JAM』をテーマにしてみました。主人公たちがいる場所も西永福にあるJAMというライブハウスです。はやくライブハウスが元に戻りますよう、、!あと私の大好きな居酒屋も。
失恋というテーマは絶対にむらさきさんに引っ張られたと思っています!今回も楽しかったー!!

むささきさんの作品は、「別れの予感」。私とは違った感性の女の子がいつも輝いている。


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及川一乃
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