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逸脱する編集①ブライアン・イーノのジェネレイティブ/一日一微発見364

僕は編集とはマーケティング的に「同質性」の価値を生み出すものではなく、「差異」や「逸脱」などの「異質性」を生み出す術であると考え活動している。

編集は、どんなにメディアテクノロジーが抑圧的になっても生き残るだろう。AIの力が支配的になっても、AIと共同する編集が開発できるだろう。そう、僕はオプティミスティックな編集者なのだ。

2010年代以降は、SNSの時代になった。GAFAが提供してくれるシステムは、一見すると個人が発信できるツールをフリーで手に入れた夢のような状態だ。
しかし、だからといって万人のクリエイティヴィティやリテラシーが上がるわけではない。
実際にはネット社会の仕組みは彼らプラットフォーマーが支配していて、ある日突然、予告なしにフォーマットや仕組みが変えられるてしまう。自由度や創造性みたいなものが果たして提供されているのか? 
それは、誰しも疑問に思うだろう。

ましてや2020年代以降は、ChatGPTのような本格的なAI時代への突入期であり、人間の隷属化が加速することは明らかだ。

機械が牽引した産業革命の時には、それを破壊する「ラダイト運動」が起こったが、コンピュータや携帯端末やAIの破壊運動は起こってはいない。
そのかわり国家レベルでも起こっているのが、サイバー戦争。ハッキングだ。「敵」なるツールを乗っ取って「敵」をアタックする。

さらには、世界的なポピュリズムの台頭により、為政者はフェイクニュースを駆使して国民を分断し、デモクラシーを逆利用し巧妙に支配する。
こんな中で、一番力を失効するのは、真実が売り物のジャーナリズムであり、言説の力を信じる批評家たちである。これと並走してきた「編集」は失効した。

いまや、全ての価値は、編集されたものである(これからはAIがエディットしたもの)。
料理からコンビニ、音楽、アートに至るまで、レディメイドな素材をリエディットして作られたものばかり。
だからこそ、人間の絶えざる変容の力、編集を編集することをやめてはいけない。

では、来るべき「逸脱の編集術」はどこにあるのだろう?

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