写真の晴れた日・篠山紀信展へ/一日一微発見237
僕は母親の写真を小さな額に入れて立て掛けている。それは、子供時代に近くの五月山に家族でドライブに行ったときの白黒のスナップで、手札の小さなものだ。
その写真は、他愛のないもので、僕はその被写体が誰であるか、場所がどこかを記憶しているから「価値」があるだけであり、その写真の置かれている文脈がわからない人にとっては、それは極論すればゴミに等しいだろう。
残酷な話だが、世界で生み出されている写真の宿命はこのようなものだ。
僕は家族関係がややこしい家に生まれ育ったせいで、夏になっても墓参りということをしたことがない。だから額の中に入っている写真が、墓碑のようなものだと思う(それは遺影というのとはすこし違っているのだが)。
ロラン・バルトは『明るい部屋』で、母親の写真をめぐって写真論を展開した。
それは「プンクトゥム」と「ストゥーディウム」という2極を「写真の力」とする試論であり、その根本には「愛と狂気」が潜んでいた。
写真はただの紙切れなのに、人にとりつく幽霊のようなものなのだなとも思うのである。
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