再度、ヴェネツィア・ビエンナーレを中沢新一『構造の奥』から考える/一日一微発見463
今年の第60回ヴェネツィア・ビエンナーレは、アドリアーノ・ペドロサのディレクションのもと「Foreigners Everywhere」をテーマに、グローバルサウスからの立場から先住民、クィア、アウトサイダー政治的抑圧者たちをクローズアップした画期的なものだった。
また、プレモダン、モダン、ポストモダンの作家たちを横断的にエデットするキュレーションは、一見カオスにも思えるが、よく見ていくうちにきわめて戦略的に構築・配置されていることが見えてくる。
ジャルディーニでは、移民とフェミニズムをあつかい続けてきた86才のニル・ヤルターを冒頭にもってきたし、アルセナーレではマタホコレクティブを持ってきた。
僕はアルセナーレのキュレーションの方が腑に落ちた。マタホのイントロをぬけると、ペドロサのキュレーションの基本形がよくわかったからである。
部屋に入って入り口側の裏の壁には、チリのピノチェット政権下で抑圧の中でつくられたボルタドラス・デ・イスラネグラの巨大な刺繍。
それはアートマーケットがよろこぶような「作品」ではないが、人間にとっての根源的な表現欲求を見事に肯定するものだ(ピースフルだった)。
左の壁にはアボリジニによるコスモグラフィー。それは西洋美術史とは異なるアブストラクションの文脈が提示されている。
右壁には11ヶ国に住み62ヵ国を旅してまわったバシータ・アバトのキルティング絵画。「グアンタナモ湾で待つハイチ人」がわれわれをむかえる。極めて政治的なモチーフだ。
そして正面。そこに左右いっぱいに巨大に広がるのは、メキシコ出身でハンブルグ大学でユタ・コーターの薫陶をうけるフリーダ・トランゾ=イェーガーが描く「クィアの未来図」が広がっている。それは同時に資本主義が自滅したあとのユートピア(or ディストピア?)がパノラミスティックに描かれている。
観客はこの空間の中で、それらの異なる4つのフェイズを脳の中で合成することを求められる。訳がわからないかもしれない。方向を見失うかもしれない。しかし、これがペドロサのキュレーションのやり方なのだろう。
僕はその「スマート」なヤリクチに「変成」作用の意識を見て、好感を持ったが、同時に反発する人も多いだろうとも思った。
さて、ここに追記しておきたいのは、ヴェネツィア・ビエンナーレから日本に帰って再考したことである。それはForeigner Everywhereのモチーフの1つにもなっている「先住民」のことだ。
「先住民」への視点は、もちろん先進国が行ってきた植民地政策や奴隷制、人種差別など数々の非道の歴史からのレジストにもとづいている。それは人類を希望ある未来に進める上で不可逆のソーシャルプラクティスだ。
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