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たかくらかずき「ハイパー神社」祭のトークショーで考えたこと/一日一微発見462
NFTアートはコロナ下の2021〜22年のバブルをピークに、マーケット的には今や壊滅的な状況にあると言われる。
しかし冷静に考えてみるとあきらかだが、ブロックチェーンのしくみでデジタルアートの唯一性を保障できるテクノロジーは不可逆的なものだ。
アート戦略、アート思考を持たないデジタルイラストが高価で売買されることは、全くの一過性の現象でしかないことは、当時から明らかなことであった。
実際には、ポストコンセプチュアルアートとしてデジタルデータで生み出した作品を価値生成できるかを、真剣に取り組まなければならなかったのだ(それをやってるとこだけ生き残ってる)。
テクノロジスト集団の「ゆめみ」と組んでNFTアートのプラットフォームTRANSFORMARTを始め、僕らはアーティストのたかくらかずき君と組んで「ハイパー神社」プロジェクトを立ち上げた。
NFTアート壊滅状況のなかで、このプロジェクトは、例外的に大いな反響と評価を呼び、投機的とは別のフェイズで、セールスも順調に推移している。NFTアート暴落の中で、なぜに「ハイパー神社」に注目があつまるか。それは、そこにある戦略的思考にある。
先日、東京恵比寿のNOX GALLERYで「ハイパー神社祭」(展示とイベント)が行なわれ、その時に、たかくらかずき、草野絵美、高尾俊介各氏らとトークの機会があっり僕も参加したので、その時に考えたことを書いておきたい。
まずはっきりと書いておきたいのは、たかくら君は単にNETアート作品を作ることにとどまらず、重要な問題提起をしている。
彼は先日、「web 美術手帖」に「キャラクターマトリクス(ポスト/プレ物語のためのゲームキャラクター)」という長文論考を発表した。
これは日本のコンテンポラリーアートにおいて「アニメふうキャラ」ではなく「ゲームキャラクター」こそに注目すべきだ。いやそのことは、ひいては、コンテンポラリアートの「あり方」の根本的なシフトと深く関係する。
ここには、重要な「アート思考」があると思われる。
彼の論は、ある種のコンテンポラリーアートを支える「物語」への批判なのだが(曖昧なところもあるが)、ベースとなっているのは1997年に中沢新一によって書かれたゲームアート論『ポケットの中の野生』(ポケモン論)そのアップグレートすることを目指して書かれていると言ってよいだろう。
中沢は、この著作の中で、特撮怪獣たちが、何の物語を背景とせず、資本主義により作られた表層世界に不条理までに突然出現することを述べる。そしてこの侵入者が、精神分析学のジャック・ラカンが説く「対象a」に他ならないことを語るのだ。
言葉のシステムによってがんじがらめになった心の自然を取り戻すもの(野生のモンスター)として、ポケモンというゲームを評価するのである。
村上隆ら多くのペインターが、アニメキャラを記号として借りてポスト・ポップアート作品という資本主義芸術産品を生産としているのに対して、たかくら君は、ゲーム(ゲームキャラ)を作用点にして、それらのアートのあり方の限界と批判を行う。
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