再訪モンテ・ヴェリタ。ハラルド・ゼーマン、魂をキュレーションする/一日一微458
8年ぶりにハラルド・ゼーマンによるキュレーション展示が残る「アートの聖地」モンテ・ヴェリタを再訪した。気分は全く巡礼である。
カーサ・アナタが中心となる館だが、それを「アート作品展示場」と期待した人は、訪れてみるとそこが「秘宝館」であることに面喰うだろう。
ところ狭しと並んでいるのは、人間の営みがうみ出した「奇想」「異物」や「探究の成果物」であるからだ。ヴィジョンを描いた絵であり、ユートピアの設計図であり、裸体で踊るダンサーたちの写真であり、革命や超心理学の本や霊石の庭であったり。
それらが詰め込まれ、入り口ではゼーマンがその展示を案内するビデオも常時流されている。ゼーマン自身も展示物の一つとなり、アスコナの丘の上で生き続けているのだ。
この場所は、「究極」や「絶対」を求めたがあまり、ゆがんだ形になったバロック真珠を思わせる。
美しいがいびつに歪んでいる。
廃物ではないのだ。
モノの力によって時空の歪みを実感しないわけにはいかない。ゼーマンはモノの力を見定める魔術師としてこの館をいまだ統括している。
展示されたのは70年代であることを考えるに、恐るべし、ゼーマン。
モンテ・ヴェリタを再度巡礼して、まず、僕を刺してくることは、アートとはマーケティング的な思考とは真逆なものだということだ。
アートは、人々が作品に何を求めているかに呼応して生成されるものではなく、アーティストと呼ばれる人の、やむにやまれぬ衝動により生成される「極端なもの/エクストリーム」であるということだ。
いや逸脱ゆえに、その者は自らをアーティストと思っていないかもしれないし、名づけえぬ者なのだ。
しかし、ヴェリタという真実は、そうしなければ触知できない領域の話である。
展示とは自ら釘を打つ者にのみ降臨する場の魔術なのである。
逸脱なしには生成なし。それがまずはゼーマンの教えと知るべし。
僕は編集者だし、アートプロデューサーだし、キュレーションもするから、人を動かす才能(=魂)や生成されるモノの力をどのように組織し、磁場を形成できるかにとりつかれてきた者である。
そのリスペクトすべき先達として偉大なキュレーターであるハラルド・ゼーマンに出逢った。
これは個人的に必然の出逢いだと思っている。
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