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裸の眼で見る③クロード・モネの「睡蓮」をアップデートして考える/一日一微発見380

モネの「睡蓮」の絵は、彼の晩年に描かれたシリーズだが、それこそが20世紀(象徴性にも、1900年頃から描き出されているし)の絵画の始まりだと言ってよいと思う。

僕はモネの絵こそが、具象から抽象への道を開いたと思っている。しかし、それは「抽象画」の誕生がモネにあるということを言いたいわけではないのである。

「分類」とか「理づめ」の話ではなく、絵には「具象」も「抽象」もないことを、モネの絵は示すことができた希有なものだと思うのだ。

モネの「睡蓮」の話なら、パリのオランジェリーの絵の話をすべきなのかもしれないが、ここ数日、モネの「睡蓮」を、たて続けにチューリッヒとバーゼルで見たので、そのことを書いておきたいと思う。

ふと、ナダールはモネのポートレイトを撮っていたかしらと思って検索したら、1890年に撮っていた。モネの59才の時のものだ。59才にしては目のまわりや顔に深いしわがより、晩年の長いヒゲをすでにたくわえているから、年齢のわりにはひどく老人に見える。
しかし、ナダールはしっかりとモネの「眼」をとっている。それは何かを見透すような強い眼である。

しかし皮肉にも、この頃からモネは失明や白内障にみまわれていくことになった。
口の悪い批評家たちは「睡蓮」などの作品は、白内障でモノがもうろうとしか見えなくなった反映だと断ずる者もいるのである。

僕はモネの写実的な作品や、「積み藁」のような、光の変化を、「形」をかりて表現したものよりも、「睡蓮」の方を愛する。
そしてそこにもはや「形」としての「睡蓮」がわからなくなってしまっている絵の方が好きなのである。

具象的なモノを抽象化する、と言うとモンドリアンを想い出すかもしれないが、モネはちがっている。それは、はっきりと、光を描きたいと思っているからだ。

水面には、まわりの景色が光となり、ゆらめく。それはひとときも定まった「形」など持たない。しかし、それが人を、そしてモネをひきつけてやまないものなのだ。

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