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『キョコロヒー』が面白い。齊藤京子の個性とヒコロヒーの実力

『キョコロヒー』が面白い。日向坂46の齊藤京子と、ピン芸人ヒコロヒーの深夜バラエティ番組。バラバラ大作戦というテレ朝深夜の枠の中で始まったこの番組は、バラバラ総選挙というファン投票企画で1位を取り、この10月から12時台へと「昇格」を果たした。

この番組の魅力はなんだろうか。ヒコロヒーは元彼(本人曰く"グレーな関係")から「あの番組はアイドルの子が面白いだけ。お前(ヒコロヒー)はそれをアシストしているだけ」と言われ、ブチギレて破局したとのことだが、個人的には「そのアシストがとんでもなくすごい」と思っている。

齊藤京子のパーソナリティはとても個性的だ。世の中に「変わっている人」はたくさんいるが、齊藤京子は自分のことを「変わっている人」とは思っていない。自分の中に芯があり、自分の世界があり、自分の正しさがある。その自分の世界の「法」が世の中の「普通」とかけ離れている。だから齊藤京子は「変わっている」のだが、彼女は決して世の中の「普通」に屈しない。彼女は自分の「普通」を貫き通すだけだ。だから彼女は面白い。

一方、ヒコロヒーがとんでもないのは、そんな齊藤京子へのツッコミを「一言も外さない」ことだ。ぼくはツッコミというのは"共感"だと思っている。なにか面白いことが起きたとき、誰かが面白いことを言ったとき、その状況に対して「みんなが思っているけれども、言語化できない感情」を言語化すること。そんな大きな"共感"状態を作り出すことが、ツッコミの役割だと思っている。

ヒコロヒーはこの番組で、すべてのツッコミを担っているが、そのすべてが「言い得て妙」。太鼓の達人で言えば「フルコンボだドン」が出るくらい、状況を「言い得ている」。そもそも、この番組におけるツッコミの難易度は低くない。なぜなら相手が齊藤京子だからだ。芸人であれば、「どうツッコまれるか」が想定されているボケが飛んでくるのだが、齊藤京子はただ齊藤京子だ。誰も経験したことがない不思議な違和感に対して、ヒコロヒーは例えや否定、スカシ、ときには表情のみで機微を表し、齊藤京子を「説明」する。

いつの時代も「ファンタジスタ」の横には「ファンタジスタを支える才能」が必要だった。ジダンとマケレレ、ピルロとガットゥーゾ、トッティとトンマージ。例えが欧州サッカーに偏ってしまったが、ファンタジスタがファンタジスタでいるためには、その周りで「水を運ぶ人」が必要だ。だから鈴木啓太はオシムジャパンに呼ばれ続けたのだ。

近年、この「ファンタジスタを支える才能」で天下を取りつつあるのが、麒麟の川島明だ。川島も各バラエティで見せているのは、この「状況」に対するツッコミである。天龍源一郎の滑舌の悪さに対して「エスプレッソマシーンのモノマネ?」と表現したのが水曜日のダウンタウンで取り上げられていたが、このように「ボケじゃないボケ」を的確に例えるその手腕で評価をまたたく間に上げていった。

この能力に近いものをヒコロヒーにも感じてしまう。「ボケじゃないボケ」の千本ノックを、深夜のテレビで捌き切っているからだ。大エースの齊藤京子に対して、8人分の守備を1人でしているヒコロヒー。ダボダボのくすんだパープルの衣装で守備につくヒコロヒーが思い浮かぶ。

兎にも角にも『キョコロヒー』はとんでもない番組だ。齊藤京子の個性もとんでもないが、ヒコロヒーの実力もとんでもない。この2人を掛け合わせようと思いついた人は天才だと思う。どっちを先に思いついて、どうやってもうひとりに行き着いたのだろう。

個人的には、途中までめちゃくちゃサッカーで例えていたのに、最後に野球で例えてしまったことが悔やまれる。ヒコロヒーならツッコんでくれるだろうか。

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