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アマチュア研究家・松井周星による「研究ノートについての覚書」

2024/8/21 初稿

挨拶、および、書き出しについて
はーい、こんにちは!マツイです。
みなさん、いかがお過ごしですか?無事でしょうか。

結構、この書き出しの挨拶は毎回迷っていて、何か自分らしいテンプレみたいなものが欲しいなとは思っているんですが、逆にそれで自分の印象が固まってしまい、不自由になるのもコワイな〜なんていう風に思っています。

ちなみに、僕が気に入っている挨拶を3つ挙げるとすると、こんな感じです。

・粗品さん(芸人・youtubeでの挨拶)
・柴崎さん(画家・youtubeでの挨拶)
・小林海さん(自転車競技選手・Xでの挨拶)

これらをミックスできたらいいな〜と思っているんですが、妙案は今日時点で思い付かず、、、アイデア募集してますので、ぜひみなさん連絡お待ちしています。

僕には3つ離れた弟がいるのですが、彼によれば、今をときめくレオザフットボールさんも、昔は冒頭にコミカルな挨拶をしていたのこと(今はそれが見られなくなってしまったらしい)。挨拶って奥深いですね。

学生生活を振り返る 〜「研究ノート」をめぐる思い出〜

さて、今日もどんどん書いていきましょう。今日は「研究ノート」について書き、それを一部公開しようと思います。

昨日、「躁鬱人・松井周星の読書リスト」という記事を公開しました。ご覧いただいたみなさんありがとうございます。今日の原稿は、「読書リスト」の続く、関連する試みとして書いています。

僕は大学で人文科学系、社会科学系の研究をしていました。最終学歴は、学部卒なので、アカデミアの真髄みたいなものには到達できたとは、到底考えておりません。が、それでも自分なりに研究および学問には向き合ってきたつもりです。僕の卒業研究は駄作に終わりました。それによるアカデミック・コントリビューションは、本当に微々たるものです。しかし、真剣に研究に取り組もうという態度は示せたと自負しているし、持てる力を全て使って、頑張りました。

また、環境にも恵まれていたと思っています。僕は東京外語大の国際社会学部に設置された「現代世界論コース」というところに所属していたのですが、教えてくださる先生方はみな、学問の最前線で活躍されている方々でした。身震いするような講義の表題を今でもいくつも誦んじることができます。

師である中山智香子先生には、研究領域の内外でお世話になりました。また、ともに学んだゼミ生のみなさんも、とても優秀でした。嫉妬するほど優秀な先輩・後輩・同期がいました。このことの詳細はまた機会を作って話したいとは思います。

「恵まれていた」みたいな言い方を最初にしたため、「ああ、そうか、マツイくんは幸せな大学生活を送ったんだな」というような印象を抱かれている方は多いかもしれませんが、それは誤りです。いや、正確に言えば、確かに今は幸福だったと思うのですが、当時は本当に辛かったです。辛い思い出が95%くらいです。ゼミが嫌で嫌で仕方ありませんでした(「嫌で嫌で仕方ない」と記述してしまった後に、いや、ほんとは「大好きだった」んじゃないか?とも思えてきたりもします。ここが松井の屈折ポイントなのですが、いったんは、辛かった経験として置いておきましょう。この気持ちと言葉の相反については、また書きます)。

その証拠に、僕はこの前の「生きてることに遠慮なんてしねえよ」の記事で、大学シニア時代を、「暗黒時代」と表現しました。最近よく表題にもしていますが、目まぐるしい研究生活の中で「躁」になったり、「鬱」になったりを繰り返したのです。

前置きが長く恐縮ですが、ここで僕が言いたいのはこれです。僕が大学時代に何か一つ学んだことがあるとすれば、それは、「研究のしかた」です。具体的に言えば、本の読み方。発表の仕方。レジュメの切り方。発言の仕方、文献リストの作り方、など。もちろん僕はこれらを完璧に体得しているわけではありません。なので、みなさんにそれをレクチャーしようなどという気は毛頭ありませんし、できないです。ただ、自分には学問的センスはないけれども、こういう作法だけはきっちり学ぼう、身につけようという態度だけは忘れませんでした。なので、今日はそれに関する話をしようと思います。

で、今回問題にしようと思うのは、「研究ノート」についてです。僕の研究は基本的には文献資料との格闘、あるいは、録音や映像資料との格闘でした。その際に、必ず用意しましょうと教わったのが、「研究ノート」です。

中山先生に師事することになり、最初の日のオリエンテーションのことを、僕は今でもよく覚えています。そこでは学ぶにあたっての原理原則が、いくつも提示されました。「研究ノートを用意して、書いて記録すること」「ゼミは休まないこと」「知識人たるもの、必ず紙とペンはいつも持っておくこと」「書いたものには日付を記すこと」など、いろいろとあるのですが、僕は、「研究ノート」のことを一番よく覚えています。

ここからは僕なりの研究ノート解釈を語ります。僕は、研究ノートを3通り用意しています。1つはA4サイズのキャンパスノート、2つめは手帳型、3つ目はPC(たまにスマホ)です。どれも、自分の研究や興味関心の探究のために、論拠となりそうなことを記録したり、アイデアを構想するために使っています。A4はこれまでの教育で散々使ってきて慣れている。手帳型は、なんか落ち着く。PC(時々スマホ)は、ポータビリティを意識して採用しています。3つの型があるのですが、目的は一緒で、メモすること、つまり文字通りノートなのです。

当たり前のことを言いますが、「研究ノート」とは、メモ書きに過ぎません。つまり、研究ノートのみでは、研究発表はできないし、モノは書けないのです。もちろん、何らか思うところがあり、つまり何らかの論理に従ってメモをとっているには違いないのですが、ただの抽出と羅列からは論が生まれることはない。そして、それをそのまま論文にすることはできない、というのが僕の考えです。

僕はよく自分の研究発表の日に、「君の発表は研究ノート状態だね」と、何度も言われてきました。それで発表資料を何度も作り直しました。論文の発表の場で「これは論文ではありません」と何度も言われました。それが本当に、本当に、辛かったのですが、今思えばそれを指摘してくださったみなさんには、本当に頭が上がりません。この場で謝辞を述べたいです(たぶん読んでいないだろうし、自分からゼミ関係のみなさんに自分の原稿を公開しようとは思わないのが僕の弱さです)。

「研究ノート」の公開も興味深いのでは???
ただ、僕は一方で、「研究ノートの公開も、とても興味深く魅力的なことなのではないか???」と思っています。大学を出て4年くらい経ちますが、最近になってそんな思いをますます強めています。というのも、好きな作家の作品などを読んでいるときに、「誰のどの作品からこういう語りを思いついたんだろう?」とか、「どういうふうにこの解釈を整理したのだろう」とか、そんなようなことを考えてしまうのです。つまり、作品の生成過程に興味があるということです。

すると、やはり研究ノートというのは、うってつけの題材だということになります。みなさんも、好きな作家や作品についての、つくり手のノートって見てみたくありませんか??

高校時代の同級生で、「森鴎外のノートをお借りしたい…」と言っている友人がいたのですが、僕は今ならその意味がわかる気がするのです。さっき、「研究ノート状態の発表で怒られた」という話をしましたが、ある意味、研究ノート状態での発表には、魅力があるのかもしれませんね。

と、いうわけで、今日は少しだけマツイの研究ノートの端くれをみなさんに公開したいと思います。きのう、「読書リスト」を公開しましたが、その10冊に関しするノート、とりわけ手元のmacに残してあるものを中心に少しだけ公開したいと思います。

よかったら、覗いていってください。

とりあえず今日はここまで。ありがとうございました!

付録 研究ノート
※著作権等を尊重し、取り扱いにはご配慮いただければ幸いです。

エドワード・E・サイード著、大橋洋一訳(1998)『知識人とは何か』平凡社ライブラリー。
サイード 『知識人とは何か』
はじめに   「闘う」という記述のある箇所

p13 pl1
「わたしが自分で書いた本のなかで覆そうと闘ってきた相手は、
 「東洋」(イースト)とか「西洋」(ウエスト)といった虚構(フィクション)であり、 
またさらに、
 人権差別主義が捏造したところの従属人種、東洋人、アーリア人、ニグロといった本質主義的分類法であった。

と同時に、いっぽうで、

過去において植民地主義の暴虐を幾度もかいくぐってきた国々では、
原初にあった無垢の状態が西欧人によっておかされてきたという被害者意識が強いが、

わたしは、こうした考え方に与(くみ)することなく、次の点をくりかえし強調してきた。
東洋とか西洋といった神話的抽象概念は端的にいって虚偽であるが、
同じことは、
かつての植民地国が西欧に向けて発する非難のレトリックの中で駆使されるむきだしの対立図式についてもいえる。

文化は、たがいに混じりあい、その内容も歴史も、たがいに依存しあい、雑種的なものであるため、外科手術的な切り分けをおこなって、
<東洋>(オリエント)とか<西洋>(オクシデント)といったおおざっぱで、おおむねイデオロギー的な対立をこしらえることなどできないのである」

(松井)
文章の構造上の整理。
連想するもの:ラートカウ『自然と権力』における論法、「先生の白い嘘」加害-被害の構造と語り、コンプレックス

色川武大(1984)『うらおもて人生録』毎日新聞社。

『うらおもて人生録』 ←『クソみたいな世界を生き抜くためのパンク的読書』の1冊目
1984  刊行  色川(1929-1989) S58.8-S59.8 55回連載 毎日新聞日曜版
1983-1984
初回はおそらく、54歳くらいの時の語り

好きなとこ これから書く上でのヒント
人を好きになること ー の章

pp17-18  p17 pl5
「小学校でもほぼそうだった。皆と一緒にいると息がつまるんだ。どうして息がつまるかというと、俺の場合なんかにはね、もちろん劣等感が根底になっているんだけれども、教師や級友の後から歩いていくばかりで、自分が彼らに何も与えることができないんだ。なんでもいいから自分もどこかで主導権をとりたいと思うんだけれども、その方法がわからないし勇気が出ない。つまり、交流できないんだな。だからいつも居心地がわるい」

『鏡』的な語り。懐かしむ視点。自分との差異
 おおむね共感だが、100ではないという点について

村上春樹(1987)『ノルウェイの森』講談社。
『ノルウェイの森』
参加しない 沈黙する ↔︎  決意 立場の表明

上巻 p89 pl1
「五月の末に大学がストに入った。彼らは「大学解体」を叫んでいた。結構、解体するならしてくれよ、と僕は思った。解体してバラバラにして、足で踏みつけて粉々にしてくれ。全然かまわない。そうすれば僕だってさっぱりするし、あとのことは自分でなんとでもする。手助けが必要なら手伝ったっていい。さっさとやってくれ」

上巻 p121 pl1
「ビラにはあのあらゆる事象を単純化する独特の簡潔な書体で「欺瞞的早朝選挙を粉砕し」「あらたなる全学ストへと全力を結集し」「日帝=産学協同路線に鉄槌を加える」と書いてあった。説は立派だったし、内容にとくに異論はなかったが、文章に説得力がなかった。信頼性もなければ、人の心を駆り立てる力もなかった。丸顔の演説も似たりよったりだった。いつもの古い唄だった。メロディーが同じで、歌詞のてにをは(「てにをは」に傍点)が違うだけだった。この連中の真の敵は国家権力ではなく想像力の欠如だろうと僕は思った」

「安心して僕の目をくりぬいてみろよ」by 坂口恭平
かかってこい 非暴力 不服従

「連中」の「想像力の欠如」 想像力 想像
読みの違いに過ぎない

拙文「生きてることに遠慮なんてしねえよ」
論の構想ノート

2024/08/25






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